180128
生まれつきの盲人のいやし
ヨハネ9:1-7
1か月ほど前のヤフーコラムニュースに、全前脳胞子症の赤ちゃんが生まれて育てているクリスチャンのことが載っていました。堕胎を勧めた人もいましたが、両親はクリスチャンで、「人の手によって人間の命の期限は決められない」と産み、賛(たすく)君と名付けて育て、2歳の今、神様とともに幸せに暮らしているということです。このコラムを読み、生まれつきの病気や問題も、否定的に見ないで、神様の御業に期待していくことのすばらしさと、心の目が開かれていることの大切さを感じました。私たちも心の目が開かれることを学びましょう。
1.神様からの賜物に目を留めよう
道端に生まれつきの盲人がいました。生まれつき目が見えないということは、今までに一度も光を見たことがなく、親の顔も知らない、悲しい境遇に置かれています。弟子たちは、このような悲惨な状況は罪の結果と思っていました。しかしイエス様は、罪の結果とは見られず、神様の御業がこの人に現わされるためであると、神様に対する信頼と希望をもって答えられました。
私たちも悪いことが起こると、誰かのせいにしたり、自分に自信をなくしてしまったりするものです。しかしイエス様はそのようには見られません。私たちは主にあって勝利者です。常に主に希望を置く者となりましょう。罪から来る報酬は死です。しかし、神様からの賜物が永遠のいのちであることに目を留めましょう(ローマ6:23)。
2.イエス様の犠牲により目が開かれた
イエス様は地面につばきをして泥を作り、盲人の目に塗るという方法で盲人をいやされました。彼を癒すためになぜイエス様はつばきで泥を作って塗ったのかはわかりませんが、イエス様の苦しみによって私たちは癒されたのです(Ⅰペテロ2:24)。
また、イエス様は盲人に、シロアムの池で洗うように言われました。シロアムとは「遣わされた者」という意味であり、神様から遣わされたイエス様を意味しています。私たちもイエス様によって、洗い清められ癒されるのです。
3.霊の目を開かせていただこう
この盲人は、この後、イエス様ともう一度出会い、そのときイエス様を信じて救われ、霊の目も開かれました(ヨハネ9:35-38)。これこそ神様の御業なのです(ヨハネ6:29)。
病の癒しや問題の解決を求めていても、まだ与えられていないかもしれません。しかし主を信じ期待していくことは大事なことです。さらにもっと大切なことは、霊の目が開かれることなのです。霊の目が開かれるなら神様をもっと期待できるのです(エペソ1:18)。
生まれながらの盲人の目を開かれた主は、私たちの霊の目も開かれます。すべての人は、生まれながらの罪人です(エペソ2:3)。内側の目が閉ざされているなら、たとえ肉体の目が開かれていても神様に信頼することもできず、希望もなく、愛を感じることもなく暗闇を歩まねばなりません。そんな人々を救い出せるのは神様のひとり子イエス様だけです。このすばらしいイエス様の救いを宣べ伝えてゆきましょう。その神様の働きができるのはこの平和な今だけです(ヨハネ9:4、イザヤ55:6)。主のわざに励み、人々の霊の目が開かれてゆくことは素晴らしいことです。そして私たちもその労苦が無駄にならず、大きな報いを受けることになるのです(Ⅰコリント15:58)。
私たちのもっている苦しみや問題は、誰かのせいにしたりしないで、神様が助け、解決してくださると信仰的に見ていきましょう。そのためにこそイエス様が犠牲を払ってくださったのです。そしてその御業を宣べ伝えていきましょう。
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