14.11.2.
真の避け所なる主
Ⅰサムエル21章、詩篇34篇
これまで、ダビデは、様々な人達によって守られて来ました。
しかし、21章では、味方になってくれるような人はなく、ダビデは孤独でした。
ここでは、ダビデが自分の身を守るために行った努力を見ることが出来ます。
ダビデはどのようにして自分の身を守ろうとしたのでしょうか。
そして、その結果、ダビデは何を学んだのでしょうか。
1.偽りを避け所としたダビデ
① アヒメレクに偽りを言うダビデ
「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに」(1)行きました。
アヒメレクはダビデが一人でやって来たことに驚き、その理由を尋ねました。
ダビデは、サウル王から秘密の任務を与えられて密かに遣わされたのであり、
従者たちとは後で決められた場所で会うことになっている、と答えました。
ダビデは正直に本当のことを言わず、嘘を言ったのです。
ダビデは、祭司アヒメレクを信用することが出来ず、
もし本当のことを言ったら、自分をサウルに引き渡すかもしれないと思ったのでしょう。
しかし、それは自分を守るための嘘でした。
② 食物と武器を求めるダビデ
アヒメレクは食べ物を求めるダビデに「聖別されたパン」(4)を与えました。3-6。
このパンは、安息日毎に幕屋の聖所で神様にささげられたパンで、
取り換えられたパンは、祭司だけが食べることを許されていました。レビ24:5-9。
アヒメレクは律法を守ることよりも、ダビデを助けることを優先したのです。マタイ12:3,4。
また、ダビデはアヒメレクに槍や剣などの武器も求めました。
その際も、ダビデは「王の命令があまり急だったので」(8)と嘘を言いました。
そこには、かつてダビデが打倒した「ゴリヤテの剣」(9)が保管されていました。
ダビデはそれを受け取ると、神様の御心も求めず、すぐにその場を去って行きました。
そこには、かつて武器に頼らないで、ゴリヤテと戦った勇敢なダビデの姿は見られません。
③ 気違いを装うダビデ
その後、ダビデはペリシテ人の町「ガテの王アキシュ」(10)の元に逃れて行きました。
どんなにサウルがダビデを追いかけても、敵地にまではやって来ないと考えたのです。
また、サウルに敵対するペリシテの王の元に逃れれば、保護してもらえると考えたのです。
しかし、ダビデのことは、ペリシテ人たちにも知れ渡り有名でした。
そのため、ダビデはアキシュに対して恐れを抱くようになりました。
「それでダビデは彼らの前で気が違ったかのようにふるまい、捕えられて狂ったふりをし、
門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした」(13)のでした。
この行動も自分を守るための嘘でした。
こうして、ダビデは偽りを隠れ場としたのです。ダビデが恐れを抱いたからです。
その恐れは、自分の命が奪われるのではないかという心配、不安から来たものでした。
2.神様を避け所としたダビデ
ダビデはこの時の出来事を思い起こして、詩篇34篇を記しました。
アキシュの前で気が狂ったように見せかけて逃げたことは、恥ずかしい失敗の経験でした。
しかしこの経験によって、ダビデは神様を恐れ信頼し、避け所とすることを学んだのです。
① あらゆる時に主をほめたたえる(1-3)
私たちが神様をほめたたえるのは、状況にはよりません。信仰によるのです。
人生には、不安や心配や恐れを感じさせられるような事が起こります。
しかし、そのような中でも、神様を信頼しなければなりません。
神様への信頼は、神様を賛美し、ほめたたえることによって現されるのです。
たとえ、自分には理解できなくても、分からなくても、
神様が全てを支配し、導いておられることを信じて、神様をほめたたえるのです。ヨブ1:21。
② 主を求める者に主は答えて助けて下さる(4-8)
悩みや悲しみや苦しみの中にある時、神様に対して疑いを抱いたり、
神様を信じることを止めたりするのではなく、
そのような時こそ、神様を求め、神様に助けを求めるのです。
私たちが神様を求める時、神様は私たちに答えて下さいます。
神様は私たちの祈りを聞いておられ、覚えておられます。祈りは積み上げられています。
そして、時が来たら、神様は必ず実際的な助けや守りを与えて下さいます。へブル11:6。
③ 主を恐れよ (9-11)
ダビデはこれまで人を恐れたりせず、神様だけを恐れ、信頼し、勝利してきました。
しかし、21章では、サウルやアヒメレクやアキシュなど人に対する恐れや疑いを持ち、
偽りを隠れ蓑にしてしまい、気が狂った身振りもしなくてはなりませんでした。箴言29:25。
ダビデは、この詩篇の中で、神様を恐れることを強調しています。
神様を恐れるとは、神様を敬い、神様の主権を認め、神様に従うことです。
神様を恐れる者には、乏しいことはありません。
④ 悪を離れ、善を行え (12-21)
真面目に一生懸命努力しているにも関わらず、その労苦が報いられない時、
馬鹿馬鹿しく感じられ、努力することを止めたくなることがあるかもしれません。
また、正しく生き、良い事に励んでいるのに、それが何の益にもならず、かえって損をし、
悪い人たちが上手くやっているのを見て、良い事を止めてしまいたくなるかもしれません。
私たちが正しくあろうとすればするほど、悩むことも多くなります。
しかし、神様はちゃんと私たちを見ておられ、私たちを忘れることなどありません。
どんなに不条理に思えることがあっても、腐って悪に走ってはいけません。
善を行うことに励んでいれば、神様が必ず報いて下さいます。ガラテヤ6:9。
ダビデは偽りを自分の避け所としようとしましたが、
そこに身を隠すことは出来ませんでした。嘘によって身を守ることは出来ませんでした。
この経験から、ダビデは改めて神様を避け所とすることを学んだのです。
詩篇56篇も、この時の出来事に基づいて書かれた詩篇です。
その中で、ダビデは神様に信頼することについて告白しています。
神様こそ私たちの真の避け所です。神様は私たちを助け守り導いて下さいます。詩篇91篇。
Filed under: 伊藤正登牧師