16.8.21.
礼拝の回復
Ⅱ歴代28~32章
ヒゼキヤは、南ユダ王国の第13代の王です。
ヒゼキヤについてはⅡ列王18~20章、Ⅱ歴代29~32章、 イザヤ36~39章にもあります。
Ⅱ列王18:5には、「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。
彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった」とあります。
1.主に信頼しなかったアハズ王
ヒゼキヤの父はアハズといい、悪い王でした。
アハズは「主の目にかなうことを行わず」(28:1)、異教の神々、偶像の神々を礼拝しました(28:2)。
また、アハズは、「自分の子どもたちに火の中をくぐらせた」(28:3)のです。
アハズは、目に見えない神様よりも、目に見える偶像の神々に信頼していたのです。
神様は、アハズの不信仰の罪のため、
南ユダ王国をアラムと北イスラエル王国から攻撃を受けるようにされました(28:5)。
また、近隣のエドム人やペリシテ人からも攻め込まれていました(28:17-18)。
その原因は、「主がユダの王アハズのゆえにユダを低くされたためであり、
彼がユダでほしいままに事を行い、主に対して不信の罪を犯したからである」(28:19)とあります。
アハズが助けを求めたのは、当時勢力を伸ばしていたアッシリヤ帝国でした(28:16)。
アハズは、アッシリヤの助けを得るために、多くの貢ぎ物をアッシリヤに贈りました。
それらは、王や役人たちの家からだけではなく、神殿からも持ち出したものでした。
しかし、アッシリヤは、南ユダ王国を助けるどころか、逆に攻めて来たのです。
結局、神様以外のものに頼っても、何の助けにもならないのです(28:20-21)。
このような状況になっても「アハズ王は、ますます主に対して不信の罪を犯し」(28:22)ました。
すなわち、アハズは、主なる神様に立ち返ることも、神様を求めることもせず、
敵であるアラムの神々に助けを求め、礼拝をささげたのです(28:23)。
それだけではなく、神殿の器具を集めて、それらを粉々に破壊し、
神殿の扉も釘づけして誰も入れないように、誰も礼拝させないようにしました。
そして、さらに、エルサレムの町中に、異教の神々のための祭壇を築きました(28:24)。
このように、アハズは、主なる神様を信頼せず、礼拝せず、
目に見える異教の神々に頼り、それらを拝み、南ユダ王国の人々にもそうさせました。
アハズの治世の間、南ユダ王国は、近隣の国々や民族からの圧迫を受け、低迷しました。
2.ヒゼキヤによる神殿礼拝の回復
アハズに代わって南ユダ王国の王となったのが、アハズの息子ヒゼキヤでした。
ヒゼキヤは、父アハズと違い、「主の目にかなうこと」(29:2)を行いました。
ヒゼキヤが最初に取り掛かったことは、神殿礼拝の回復でした。
ヒゼキヤは、最優先事項は、神様を礼拝することであると知っていたのです。
① 神殿の戸を開き修理する
ヒゼキヤは、「主の宮の戸を開き、これを修理」(29:3)しました。
ヒゼキヤは、再び神殿の扉を開き、修理し、
人々が神殿に入り、礼拝が出来る状態に回復しようとしたのです。
新約聖書において、「神殿」とは、私たちクリスチャンのことです。Ⅰコリント3:16-17、6:19。
ヒゼキヤが閉ざされていた神殿の扉を開き、修復したように、
私たちも、心を神様に開き、神様との交わりを修復しなければなりません。
主は、生ぬるい信仰となってしまったラオデキヤの教会に対して語られました。黙示3:20。
② 神殿を聖別する
次に、ヒゼキヤが命じたことは、「主の宮を聖別」(29:5)することでした。
レビ人たちが、ヒゼキヤの呼びかけに応じて、
「身を聖別して、主のことばによる王の命令のとおりに、主の宮をきよめに来」(29:15)ました。
また、「祭司たちが主の宮の中に入って、主の本堂にあった汚れたものをみな、・・・出すと、
レビ人が受け取って外に持ち出し、キデロン川へ持って」(29:16)行きました。
こうして、神殿は全てき清められ、神殿の器具も整えられ、聖別されました。
私たちも、主の神殿として、自分自身を清め、聖別することが必要です。
Ⅰペテロ1:15。Ⅰテサロニケ4:3。ヘブル12:14。
まず、私たちの中から、偶像を運び出し、捨てなければなりません。
偶像とは、単に異教の神のことだけではなく、自分が神様以上に信頼しているものです。
聖別は、二つの行為によってなされます。それは「分離」と「献身」です。
ローマ12:2では「この世と調子を合わせてはいけません」と言われています。
神様との親しい関係、神様と共に歩むことの妨げになってしまうものから離れるのです。
また「からだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ」(ローマ12:1)ます。
神様が望まれることであればどんなことにでも「はい、分りました」と応じのです。
③ 賛美を回復させる
また、ヒゼキヤは、賛美をささげるために、特別にレビ人を立てました(29:25)。
そして、「ダビデの楽器」(29:26)、「歌うたい」や「ラッパ手」も復活させました(29:28)。
賛美の奉仕にあたったレビ人たちは、「喜びつつほめたたえ」(29:30)ました。
そして、楽器が奏でられ、賛美がささげられると、
全ての者が主なる神様を「伏し拝んだ」(29:28,29,30)のです。
ヒゼキヤは、ダビデの賛美礼拝を回復させたのです。Ⅰ歴代16章。
ヒゼキヤが回復したダビデの賛美の礼拝とは、単にいけにえをささげ、
儀式を執り行うだけの形式的な礼拝ではなく、
「霊とまことによって礼拝」する「真の礼拝」でした。ヨハネ4:23-24。
ヒゼキヤは、南ユダ王国の人々を神様を真に礼拝する者へと導きました。
ヒゼキヤは、礼拝が神様に対する自分たちの信仰の表れであり、
神様に対する姿勢が礼拝に表れると知っていたのです。
私たちも神様への礼拝を回復させましょう。
神様の民として、神様を心から礼拝することを何よりも優先し、大切にしましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師