Ⅰサムエル13,15章

22.11.20.

聖書の中で、繰り返し「神を恐れよ」と命じられています。「神を恐れる」ということは、「神を怖がる」ことではありません。「神を恐れる」とは、「神に対して畏敬の念を抱く」ということです。具体的には…。

① 偶像となるものを取り除き、創造主なる神にのみ仕える(申6:13-14)

② 神が聖なる方で、どんな罪や悪をも憎み、

それらを必ず裁かれる方であることを覚え、悪から離れる(箴3:78:1316:6)

③ 人間的には理解出来ないことでも、神の言われることに信仰によって従う(創22:10)

神を敬い畏れることによって、多くの祝福を受け取ることが出来ます。聖書には、神を恐れた行動をとって、祝福を受けた人たちがいます。

・神の言葉に従ってイサクをささげたアブラハム(創22:10,16-18)。

・エジプト王の命令に背いてへブル人の男の子を生かしておいた助産婦たち(出1:17-21)。

しかし、逆に、神を恐れなかったために、祝福を失った人たちもいます。その内の一人が、イスラエルの最初の王サウルです。

1.勝手に全焼のいけにえをささげたサウル

ある時、イスラエルは、ペリシテ人と戦うこととなりました。ペリシテ人には「戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民」(5)がいました。それに対して、イスラエルには、「三千人」しかいませんでした(2)。そのため、イスラエル人は、自分たちが圧倒的に不利で、勝てないと思いました。そこで、洞穴や、岩間、地下室、水溜めの中に隠れてしまったり、ヨルダン川を渡って、ガドとギルアデの地に逃げて行く者たちがいました(6-7)。サウルのもとに残った者たちも「震えながら彼に従って」(7)いました。

戦いの前に、いけにえがささげられ、祈りがささげられなければなりませんでした。Cf.10:8。サムエルは、「七日間」待つようにと言っていましたが、「七日間」待っても、サムエルは現れませんでした。すると、不安になった「民は彼から離れて行こうとした」のです(8)。そこで、サウルは、サムエルが来るのを待つことが出来ず、自分で「全焼のいけにえをささげ」てしまったのです(9)。サウルは、自分の力でイスラエルの人々を繋ぎ止めようとしたのです。しかし、全焼のいけにえをささげることは、祭司だけに許された務めでした。たとえ王であっても、全焼のいけにえをささげることは出来ませんでした。

「ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来」ました(10)。サウルは、自分のしたことを悔い改めず、ただ言い訳を言うだけでした。サウルは、自分の過ちの責任を、自分から離れ去ろうとしたイスラエル人と約束通り来なかったサムエルになすりつけ、自分を正当化しようとしたのです(11-12)。サウルは、主とサムエルの言葉に従わず、状況を見て自分で考え、勝手に行動したのです。神に対する恐れがなかったサウルは、イスラエルの王として相応しくありませんでした。サウルは、神を恐れなかったので、神の祝福である王位を失ってしまったのです(13-14)。

2.アマレクを聖絶しなかったサウル

サムエルは、サウルに主に従うチャンスを与えるため、「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ」という主の命令を伝えました(15:2-3)。「聖絶」とは、神へのささげ物として、人も動物も全てのものを滅ぼし尽くすことです。聖絶の対象となった民族は、全員が剣で殺され、家畜も含め全ての生き物が殺されました。通常の戦争では、女や子供、家畜や財宝などは、戦利品とされましたが、聖絶の場合は、自分の所有とすることは許されず、全て神にささげなければなりません。聖絶のものを取った者は、神の怒りに触れ、裁かれ、罰として処刑されました。主がアマレク人を聖絶するようにと命じられた理由は、アマレク人がイスラエルの後方にいた弱い人々を背後から襲ったからです(申25:17-19)。

「しかし、サウルと彼の民は、…すべの最も良いものを惜しみ、これらを聖絶することを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶した」(9)のです。サウルは、サムエルに会うと、「私は主のことばを守りました」と言いました(13)。サウルは、自分の罪を認めず、「羊と牛の最も良いものを惜しんだ」のは、イスラエルの民だと言って、その責任をイスラエル人になすり付けました(15)。さらに、「主に、いけにえをささげるためです」と言って、自分を正当化しました。そして、改めて「そのほかの物は聖絶しました」と言って、自分が主の言葉に従ったことをあくまでも主張しました。それは単なる言い訳でした。20-21節でも、サウルも同じことを繰り返して答えています。

サムエルは、サウルに主は「全焼のいけにえや、その他のいけにえ」より「主の御声に聞き従う」ことを喜ばれると語りました(22-23)。従順であることは、どんな「いけにえ」よりも勝っています。不従順は、「占いの罪」、「偶像礼拝の罪」に等しい罪です。サウルは「主のことばを退けた」ので、主もサウルを「王位から退け」られてしまいました。サウルは、サムエルに罪を鋭く指摘され、初めて自分の罪を認め、「私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです」と本当のことを言いました(24)。しかし、これは真の悔い改めではありませんでした。彼は自分の「面目」を保つことを求めていたのです(30)。

 

サウルが王位から退けられてしまったのは、彼が神よりも人を恐れる者だったからです。

サウルは、ペリシテ人との戦いで人々の心を繋ぎ止めようとし、

アマレク人との戦いにおいても、人々の心を繋ぎ止めようとしたのです。

つまり、王として、国民の支持率を失いたくなかった。得たかったのです。

そのために、主の言葉に従うことが出来ませんでした。

神を恐れるよりも、人を恐れてしまったサウルは、

イスラエルの王として、相応しくありませんでした。

主に対する信頼の欠如は、「人を恐れる」ところから来ています。

箴29:25。人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

人を恐れるのではなく、神を恐れ、神に信頼しましょう。Cf.箴19:23Ⅱ列17:39

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