20.11.15.

これは、預言者エゼキエルが見た「エルサレムの神殿の幻」です。この幻は何を意味しているのでしょうか。

1.信じる者の聖霊の満たし

ヨハネ7:37の「祭りの終わりの大いなる日」とは、仮庵の祭りの最終日のことです。その時「イエスは立って、大声で」、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(37-38)と叫ばれました。

この「生ける水の川」とは「イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のこと」(39)です。また、「心の奥底」とは、ギリシャ語では「腹」となっています。さらに、日本語では単に「川」となっていますが、ギリシャ語では複数形となっています。ですから「腹から生ける水である聖霊が川々となって流れ出るであろう」となります。イエスは、「イエスを信じる者」たちが聖霊に満たされるようになると宣言されたのです。

イエスは、聖霊の満たしの約束が「聖書が言っているとおり」であると言われましたが、その「聖書」の箇所とは、エゼ47:1-12であり、預言者エゼキエルが見た「エルサレムの神殿の幻」のことだったのです。エゼキエルが見た幻によると、「水が神殿の敷居の下から…流れ出し」(1)、「足首まで」(3)だった川の流れは、やがて「水はひざに達し」(4)、さらに「腰に達し」(4)、ついに「泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった」(5)のというものです。そのように、「イエスを信じる者」たちには、豊かな聖霊の満たしが与えられるのです。

2.将来の神の国における神殿

エゼキエルの幻の完全な成就は、キリストの地上再臨後、この地上にキリストが支配する千年王国が建てられ、新たな神殿か建てられる時です。キリストは、この地上に帰って来られ、「諸国の民」を裁きます(黙19:11-16)。そして、反キリスト(獣)と偽預言者は、裁かれて「火の池」に投げ込まれ、彼らに従った者たちも滅ぼされます(黙19:19-21)。さらに、サタンが千年間縛られ、地上に千年王国が建てられます(黙20:1-6)。ゼカ14:3-5にも、キリストがこの地上に帰って来られる時の様子が書かれています。

その時、「エルサレムから湧き水が流れ出て」、「東の海」(死海)と「西の海」(地中海)に流れるようになります(ゼカ14:8)。また「主の家の山」であるエルサレムは、全ての山より高くなり(イザ2:2)、諸国の民が教えを受けるために「神の家」である神殿にやって来ます(イザ2:3)。こうして、エルサレムの神殿は、「すべての民の祈りの家」となるのです(イザ56:7)。

また、「神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた」水は、「アラバに下り、海に入る」(8)と記されています。「アラバ」とは「死海」のことです。死海の塩分濃度は、海水の約10倍の30%もあるため、生物は生存出来ません。しかし、「神殿」から流れ出た水が死海に「注ぎ込むとそこの水は良くなる」(8)のです。そこでは、「あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる」(9)のです。また、「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が成長し、その葉も枯れず、実も絶えることが」(12)ありません。そして、「その実は食物となり、その葉は薬となる」(12)のです。これは、人間の罪によって損なわれてしまった神の国の回復した姿です。

3.教会における主の臨在

エゼキエルが見た神殿の幻は、今日の教会においても、実現されることです。今日、クリスチャンの集まりである教会が「神の神殿」(Ⅰコリ3:16)です。Cf.エペ2:21-22。そして、教会は、「神の神殿」であり「神の御霊」(Ⅰコリ3:16)が宿っている場所です。エペ1:23には、「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」とあります。

エゼキエルが見た神殿の幻は、主の臨在に満ちた教会の姿でもありました。「神殿の敷居の下から…流れ出し」て「川」となっている「水」は、イエスが宣言された「生ける水の川」のことであり、聖霊の満たしのことです。教会は、主の臨在に満ちたところ、聖霊が満たされているところです。

そして、主の臨在が満ち、聖霊が満ちている教会には、「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(エゼ47:9)とあるように、霊的な命があり、魂の救いと肉体の癒しがあるのです。主が願っておられることは、「神殿」である教会から「生ける水の川」が流れ出て、霊的に死んだ状態にある地域に霊的な命をもたらし、魂の救い、肉体の癒しをもたらすことなのです。

 

イエスは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。この言葉も、イザ55:1の「渇いている者はみな、水を求めて出て来い」の引用です。イエスは、聖霊を求めるようにと呼びかけておられます。「生ける水の川」である聖霊の満たしを求めるためには、飢え渇きが必要です。深刻な問題は、飢え渇きがないということであり、自分が干からびた状態であることが分かっていないということです。クリスチャンたちの中には、この世のもので心が満たされ、偽りの満たしにだまされ、霊的に乾いている状態であることに気付いていない人たちがいます。

それは、黙3:14-22に記されている「ラオデキヤ」の教会の状態と同じです。「ラオデキヤ」教会は、信仰が「冷たくもなく、熱くもない」、霊的に生ぬるくなっていました。彼らは「富んでいる、豊かになった。乏しいものは何もない」と言っていますが、「実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であること」(黙3:17)を知りません。

そのような「ラオデキヤ」教会に、主は「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく」(黙3:20)と呼びかけられました。飢え渇きをもって、「生ける水の川」、聖霊の満たし、主の臨在を求めましょう。私たちのから聖霊が「生ける水の川」となって流れ出て、私たち自身だけではなく、私たちの周りの人々にも霊的な命と癒しを与えるのです。

Filed under: 伊藤正登牧師