
20.5.3.
イエスとペテロの会話から、イエスがどのようなお方であるかを知ることが出来ます。
1.イエスは悔い改めの機会を与えて下さる : イエスは赦して下さる方
イエスは、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と3度も問い掛けられました。ペテロは、イエスが同じ問い掛けを3度も繰り返されたので、心を痛めました。イエスがこのような問い掛けをしたのは、ペテロに立ち直る機会を与えるためでした。ペテロは、心からイエスを愛していましたし、最後の晩餐の席では、イエスのためなら死んでも構わないと力強く告白しました(マタ26:33、マコ14:31、ルカ22:33)。そんなペテロに、イエスは「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」(ルカ22:34)と言われました。それでも、ペテロは、そんなことは絶対ないと思っていたことでしょう。
しかしその後、兵士たちがやって来て、イエスを捕らえてしまうと、ペテロは、他の弟子たちと共に、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。それでも、ペテロは、イエスを追って、カヤパの官邸まで行きました。そして、焚火に当たりながら、イエスが取り調べを受けている様子を見ていました。その時、ペテロは、周りの人たちから3度、イエスの弟子であることを指摘されました。それに対して、ペテロは、3度、否定してしまったのです(ルカ22:54-62)。ですから、イエスから「あなたはわたしを愛しますか」と3度も問われた時、ペテロは3度もイエスを否定したことを思い出し、とても心が痛んだのです。
しかし、イエスは、決してペテロを責めていたのでもありません。イエスは、3度イエスを知らないと否定したペテロに、3度イエスへの愛を告白する機会を与えて下さったのです。私たちも失敗してしまったり、過ちを犯してしまったりすることがあります。しかし、主は、私たちを責めたり、罰しようとはされません。主は、私たちが悔い改めることを願っておられます(エゼ18:23,32)。私たちが正直に罪を言い表すなら、主は私たちを赦して下さいます(Ⅰヨハ1:9)。
2.イエスは愛を問い掛けておられる : イエスは愛して下さる方
以前のペテロであったなら、自信をもって「はい。主よ」と答えたことでしょう。しかし、この時のペテロの答えはとても謙遜なものでした。3度とも「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。ペテロは、自分の弱さ、無力さを思い知らされていました。
この時、イエスが1度目と2度目に「愛しますか」と問われた言葉は、ギリシヤ語の「アガペー」の動詞形の「アガパオー」が使われていました。「アガペー」は、一方的な愛、無条件の愛、報いを求めない愛で、神の愛を表します。ですから、「どんなことがあっても、あなたは私を愛しますか」という問いだったのです。それに対して、ペテロが「私があなたを愛することは」の「愛する」という言葉は、ギリシヤ語の「フィリア」の動詞形である「フィレオー」でした。「フィリア」は、友情の愛で、相手の愛に応答する愛と言うことも出来ます。イエスからの「アガパオー」の問い掛けに対して、ペテロが「フィレオー」で答えたのは、自分の内にはイエスに対するアガペーの愛がないということを知ったからです。そして、自分がイエスを愛することが出来るのは、イエスの愛があるからであるということが分かったのです。ペテロは、「イエスが愛して下さるから、イエスを愛せるのです」と言っているのです。
私たちもイエスを愛していますが、人間の愛というのはアガペーの愛ではありません。人間は、やはり自分を一番愛しているのであって、自分を守ろうとするものです。そのため、ペテロも自分を守るために、イエスを裏切ってしまったのです。それでも主は、私たちにご自身に対する愛を問い掛けておられるのです。私たちがイエスを愛せるのは、ただイエスが私たちを愛して下さったからです。私たちが主を愛する前に、主が私たちを愛して下さったのです(ロマ5:6-8、Ⅰヨハ4:9-10)。
3.イエスは使命を託される : イエスは信頼して下さる方
ペテロが3度「愛します」と答えた後、イエスはそれぞれ言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」、「わたしの羊を牧しなさい」、「わたしの羊を飼いなさい」。これらは、イエスを信じる者たちの群れ、教会を牧するようにという意味です。イエスは、ペテロに教会を任せ、彼らを霊的に養い導くようにと言われたのです。しかし、ペテロは、イエスを否定してしまうという大きな失敗を犯しました。そんなペテロに対し、イエスは、大きな仕事を任されたのです。ペテロが立ち直るためには、イエスの赦しと愛だけではなく、イエスの信頼も必要でした。イエスは、自信を失っていたペテロに、新しい使命と任務を委ねられたのです。
最後の晩餐の席でも、イエスは、ペテロの裏切りを予告した後、言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32) イエスは、ペテロの失敗に目を留めていたのではなく、ペテロの将来に目を向けておられたのです。イエスは、やがてペテロが大きな役割を果たすようになるということを見ていたのです。主は、私たちの不完全さや失敗に目を留めておられるのではなく、その先の、将来の主の働きのために用いられる姿を見ておられるのです。そして、敢えて主の大切な働き、大きな働きを委ねて下さるのです。
ペテロは、ヨハネについて「この人はどうですか」(21)と尋ねると、イエスは、「あなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」と語られました(22)。他の人と比較したり、競争するのではなく、それぞれが主に従い仕えるということです。
今日、主は私たちにも「あなたはわたしを愛しますか」、「わたしの羊を飼いなさい」、「あなたはわたしに従いなさい」と語っておられます。ペテロのように、主の御声に応答し、従っていきましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師