19.2.10.

今日は、「絶えず祈りなさい」ということについて学びます。祈りは、御言葉と並んで、信仰生活に欠かすことのできない重要な要素です。「絶えず祈る」とはどういうことなのでしょうか。どうしたら「絶えず祈る」ことが出来るのでしょうか。

1.いつでもどごても共におられる主に語り掛ける

24時間、目を閉じて、祈りの姿勢をとって祈り続けることなど不可能です。聖書は、単に祈りの姿勢をずっととっているようにと言っているのではりません。「絶えず」という言葉は、古代ローマでは、「しつこい咳に苦しめられている人」を表現する時に使われました。仕事中であっても、勉強中であっても、黙っていても、喋っていても、寝ていても、起きていても、何をしていても、咳が出て仕方のない状態のことです。同じように、「絶えず祈りなさい」というのは、仕事中でも、勉強中でも、何をしていても、共におられる主に語り掛けることです。

それは、「主よ感謝します」とか「主よ助けて下さい」という短い言葉かもしれませんし、ある時には、心の中で少し長い執り成しの祈りになるかもしれません。急に誰かのことを思い起こさせられて祈ることもあれば、町の中で見かけた困っていそうな人や疲れていそうな人のために祈ったり、事件や事故や災害などのニュースを見て祈らされることもあります。また、心の中に、心配事、恐れ、不安、悲しみが思い起こされた時も、直ぐにそれらを祈りに変えるのです。このように、いつでも、どこでも、共におられる主に語り掛け、祈るのです。ネヘミヤは、事ある毎に、祈りました(ネヘミヤ1:4、2:4、4:4、4:9、5:19、6:16)。

「人間」という言葉は、ギリシヤ語で「アンスローポス」と言います。この言葉には、「顔を上に向ける」とか「上を仰ぐ」という意味があります。そして、この「上」とは、「天におられる主なる神」のことです。つまり、人間とは、常に主を見上げる存在であるということです。下を向いたり、横を見たり、後ろを振り返るのではなく、常に共におられる主を見上げ、いつでもどこでも主に語り掛けましょう。

2.常に主を求め、主との交わりを持つ

祈りとは、単なる一方的な願い事ではなく、主との双方向の会話であり、私たちは祈りを通して、主と交わることが出来るのです。聖書は、この主との交わりを絶えず持つようにと教えています。イエスご自身も、神の御子であるにも関わらず、父なる神との祈りの時を持ちました。マルコ1:35には、「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた」とあります。Cf.ルカ5:16。なぜ、神の御子であるイエスは、祈る時を持たれたのでしょうか。それは、単に願い事をするためではなく、父なる神との交わりを持ち、自分に与えられた使命を確信し、父なる神の御心に従って歩むためだったのです。

私たちは、いつでも、どこでも、共におられる主を覚え、祈ることが出来ます。しかし、主との親しい交わりを持つために、しっかりと祈りの時を持つことも必要です。それには、主にだけ心を集中させることの出来る時間や場所がいいです(マタイ6:6)。

イエスがマルタとマリヤの家を訪問した時、「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」(ルカ10:40)にいましたが、マリヤは、ただ「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(ルカ10:39)いました。マリヤは、心からイエスを愛し、イエスとの交わりの時を持ちたかったのです。今日、私たちは忙しい日々を送っています。この「忙しさ」が主との交わりの時を持てない言い訳にはなっていないでしょうか。主を慕い求め、主との親密な交わりの時、祈りの時を持つように心を定めましょう。

3.失望せずに祈り続ける

ローマ12:12には、「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」とあります。エペソ6:18には「どんなときにも…祈りなさい」とあります。聖書は、どのような時、どのような状況の中でも、失望することなく、忍耐をもって、粘り強く祈り続けるようにと教えています。

列王18:41-46。エリヤは、雨が降るようにという祈りの途中、「若い者」に、その場所からさらに高い場所に上って「海の方」を見るように言いました。エリヤは、召使の若者に、雨雲があるかどうかを確かめさせたのです。しかし、そこには雨雲は一つもなく、彼はエリヤに「何もありません」と報告しました。これは6回繰り返されましたが何の変化も、ありませんでした。しかし、7回目になって、「人の手のひらほどの小さな雲」が海の上に見えました。それまでの間、エリヤは、失望したり、諦めたりせずに、祈り続けたのです。

イエスは、「いつでも祈るべきであり、失望してはならない」(ルカ18:1)と言われ、祈り続けることの大切さを例え話をもって説明されました。「真夜中の友人」(ルカ11:5-10)、「不正な裁判官」(ルカ18:1-8)。忍耐強く祈り求め続けるなら、与えられます(マタイ7:7,8)。

四方八方ふさがっていて、望みが持てないような状況でも、天はいつでも開かれています。
祈りの答えを実際に見るまで、忍耐をもって祈り続けましょう。使徒12:1-17。ペテロが捕らえられ、翌日、処刑されようとしていた時、絶望的な状況の中でも、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」(使徒12:5)のです。一人では、祈れない時、祈り続けることも困難な時もありますが、主にある兄弟姉妹と一緒であるなら、励まされて、祈り続けることが出来ます。絶えず祈り続けるために、教会に一緒に集まり、祈ることも必要です(へブル10:25)。

日常生活のあらゆる場面で、主を見上げ、いつでも、どこでも主に語り掛けましょう。主との親密な交わりの時、祈りの時を持つように心を定めましょう。どのような時にも、失望せずに、忍耐をもって、祈り続けましょう。