聖くあれ

黙示2:12-17

21.8.15.

アジアの七つの教会へのメッセージの第3は「ペルガモにある教会」に対するものです。

1.御言葉によってきよめて下さるキリスト(12)

キリストについては、「鋭い、両刃の剣を持つ方」と紹介されています(12)。聖書で「剣」は、「神のことば」を表しています。エペ6:17では、「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」とあり、ヘブ4:12では、「神のことば」は「両刃の剣よりも鋭く」と言われています。「神のことば」は、善と悪、真理と偽り、心の思いを見分け、「判別」させるものです。つまり、キリストは、「両刃の剣よりも鋭」い「神のことば」によって、罪と悪を妥協することなく、徹底的に裁き、きよめるお方であるということです。Cf. ヨハ17:17

2.賞賛の言葉 : 殉教者が出ても信仰を捨てなかった(13)

ペルガモには、ローマ皇帝やギリシヤ神話の様々な神々の神殿がありました。「サタンの王座」とは、それらの神殿のことです。癒しの神と言われていたアスクレピオンの神殿もあり、そのシンボルは「」でした。聖書の中で、「」はサタンの象徴です(黙12:920:2)。ペルガモでは、皇帝礼拝と偶像礼拝が強制され、人々を支配していたのです。

しかし、クリスチャンたちは少しも信仰の妥協をせず、イエスの「名を堅く保って」、「イエスは主」と告白していたため迫害を受けました。その激しい迫害の中で、「アンテパス」が「殺され」、殉教の死を遂げました(13)。「アンテパス」は、最期までキリストの「忠実な証人」(13)として立ったのです。この「証人」とは、ギリシヤ語で「マルトゥース」といい、「殉教者」という意味です。

ペルガモ教会のクリスチャンたちも、皇帝礼拝をするよう脅かされていたでしょう。しかし、キリストに「対する信仰を捨てなかった」のです(13)。ペルガモ教会は、迫害の中で殉教者が出ても、信仰を捨てなかったことを賞賛されました。

3.叱責の言葉 : バラムの教えとニコライ派の教え(14-15)

キリストは「あなたには少しばかり非難すべきことがある」(14)と語られました。それは、ペルガモ教会の中に、「バラムの教えを奉じている人々」(14)、「ニコライ派の教えを奉じている人々」(15)がいるということでした。

イスラエルの民がカナンに入る手前のモアブの草原に宿営していた時。「民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた」のです。そして、「娘たちの神々を拝」むようになってしまいました(民25:1-2)。そのように、イスラエルの民に罪を犯させたのが、異教の預言者「バラム」でしたす。ですから、「バラムの教え」とは、「不品行」と「偶像礼拝」のことと考えられます。

「ニコライ派」は、無律法主義者たちで、勝手気ままで、放縦な生活をしていました。彼らは、クリスチャンは律法から解放されて自由にされたので、何でもしてもよいと教え、クリスチャンたちを罪へと誘惑したのです。Cf.ユダ4

初代教会は、「偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けること」を決定していました(使15:29)。しかし「バラムの教え」も「ニコライ派の教え」も、それを無視するような教えでした。彼らは、クリスチャンが偶像礼拝や不品行を行うことを正当化し奨励していたのです。

4.悔い改めへの勧め(16)

キリストペルガモ教会に対して、「悔い改めなさい」(16)と語られました。ペルガモ教会にとって悔い改めとは、間違った「ニコライ派の教え」に騙されないこと、すなわち不品行と偶像礼拝を避けるということ、聖い生活を送るということです。

「わたしの口の剣」(16)とは、「御言葉」です。黙19:15には「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた」とあります。その「鋭い剣」は「諸国の民を打つため」のものでした。キリスト自らが、御言葉によって、悔い改めない者を裁き、罰を与えるということです。そのようにして、ペルガモ教会から不品行と偶像礼拝を取り除き、教会を聖めるのです。

5.勝利を得る者に対する約束 : 隠れたマナと白い石が与えられる(17)

① 隠れたマナ

「マナ」とは、イスラエルの民が40年間の荒野の旅をしていた時に、から与えられた「天からのパン」です。この「隠れたマナ」とは、キリストであり「永遠のいのち」です (ヨハ6:51)。「いのちのパン」(6:35,48)であるキリストの肉を食べる者は、「永遠のいのち」を持つと言われました(6:54,58)。それは、十字架にかかり死んで、よみがえられたキリストを「信じる」ということであり、信じる者に「永遠のいのち」が与えられるということです(6:40,47)。

② 白い石

古代の裁判で、裁判員は、有罪の時は「黒い石」を、無罪の時は「白い石」を投げました。ですから「白い石」とは、「無罪宣言」を意味します。キリストを信じた者は、罪の赦しが与えられ、義とされるのです(ロマ3:22-28ガラ2:16)。「その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれて」(17)います。これは、キリストを信じて新しく生まれ変わった者の名前が、天に書き記されているという意味です。Cf.Ⅱコリ5:17ルカ10:20。すなわち、「天に国籍がある者」とされたということです(ピリ3:20)。古代の競技会では、勝利者には「白い石」が渡され、競技会後の宴会に参加出来ました。同じように、キリストによって義とされた者は、天の宴会に参加出来るのです。

 

ペルガモ教会は、激しい迫害に耐えて、信仰を守り通しました。しかし、誘惑に弱く、不品行や偶像礼拝に陥り易い弱さを持っていたのです。そこで、キリストペルガモ教会に聖さを保つようにと語られました。異教の神々を礼拝することだけではなく、不品行、むさぼりも偶像礼拝です(コロ3:5 )。教会に、この世の価値観、考え方や生き方が忍び込んでしまってはいないでしょうか。不品行や偶像礼拝、世俗的な影響よって汚されず、聖さを保ちましょう(Ⅰテサ4:3-8)。

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