201122
私たちは、家族や兄弟姉妹や友人や好きな人のために、健康や祝福を祈ります。しかし、自分を苦しめる大嫌いな人のために祈ることはないでしょう。それどころか、その人に災いが来ることを願うかもしれません。しかし、イエスは「迫害する者のために祈れ」と言われました。今日は「迫害する者のために祈れ」というテーマでお話しします。
1.迫害する者のために祈られたイエス
主イエスは、神の御業を現し、真理を宣べ伝えました。イエスには何の罪もありませんでしたが、十字架にかけられたのです。「どくろ」と呼ばれている場所で、二人の極悪人とともに十字架にかけられました。イエスは、裸にされ、着物はくじで分けられ、両手両足には釘を打たれ、ローマ帝国の最も残酷な方法で処刑されたのです。
そのとき、イエスは十字架の上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。普通の人なら、苦しい目に遭うと、呪いのことばを言うものです。しかし、イエスは壮絶な苦しみの中で、自分を十字架にかけた者たち、その場で見ていた民衆のために、罪が赦されるようにと祈られたのです。
かつての私たちは、イエスを十字架にかけた者たちと同じような罪人でした(エペソ2:3)。しかし、神は私たちのすべての罪をイエスに負わせたのです(イザヤ53:4-5、Ⅰペテロ2:24)。そして、イエスを信じるすべての人は罪が赦され、神の子供となれるのです(ヨハネ1:12)。
2.迫害する者のために祈ろう
もし私たちが職場で嫌なことを言われたりしたら、とてもいやな気分になり、それが続けば「あんな人は事故か病気で職場に来なくなればよい」などと考えてしまうかもしれません。学校で毎日自分をいじめる悪い同級生がいたら、「あんなやつはケガして学校に来なくなればよい」と考えてしまうかもしれません。普通の人なら、そう考えるのもしかたありませんが、それは神の子どもとしてふさわしくありません。私たちもキリストにならって、迫害する者のために祈ることが期待されているのです(ルカ6:28、マタイ5:44)。キリストの罪人たちのための祈りは、私たちへの模範でもありました。
主の祈りでも「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイ6:12)という祈りを教えています。
迫害する者のための祈りは、あまりにも崇高な愛の祈りですが、それができるようにと聖霊が私たちに与えられ(ヨハネ14:16)、神の愛が私たちの心に注がれているのです(ローマ5:5)。聖霊によって愛の実を結べるのです(ガラテヤ5:22-23)。
3.敵を愛する者にある報い
敵を愛し、迫害する者に善を行い、のろう者を祝福する者は、すばらしい報いを神から受けます(ルカ6:27-38、とくに6:35)。
ヨブも苦しみのとき、自分を悪く言った友人たちのために祈りました。するとヨブの繁栄は元通りになり、以前の倍も祝福されました(ヨブ42:9-10)。
私たちは神の子供となる特権が与えられましたが(ヨハネ1:12)、敵を愛し、迫害する者のために祈るなら、神の子供としてふさわしい者になれるのです(ルカ6:35)。また、人からも大変良くされ、愛されるのです(ルカ6:38)。
人の行いを神が喜ばれるとき、神はその人の敵とも仲良くなるように導かれるので、結果的に問題は解決するのです(箴言16:7)。ですから、私たちを迫害する者のために祈り、その人が救われて罪赦され、神の国に入れるように祈りましょう。もしその人が神を信じて救われたら、苦しみなどは吹き飛んで、大いに喜ぶでしょう。
初代教会の最初の殉教者ステパノは、ユダヤ人たちから石を打ち付けられて殺されようとしていたとき、「この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りました(使徒7章、とくに7:60)。その時、サウロ(パウロ)は、そのユダヤ人たちの服の番をしていましたが、後にイエスと出会い、回心し、救われ、やがて福音を伝える人となりました。ステパノの祈りは大きく実を結んだのです。
私たちは、キリストの犠牲のゆえに罪赦され救われました。しかし、主は私たちが救われるだけではなく、私たちも迫害する者のために祈ることを願っておられます。私たちには難しく感じますが、聖霊に満たされ、神の愛を注がれる時、迫害する者のために祈ることができるようになるのです。そのとき人知を超えた報いが与えられるのです。
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