26.9.6.

「バベル」の話は聖書の中でも有名な話の一つ。この出来事を通して何が教えられるのか。

1.バベルでの出来事(一致が混乱に)

ノアの時代の大洪水によって、ノアの家族8人以外の人類は滅んでしまった。その後再び、人類はノアの家族から増え広がった。人々は「東の方へ移動し」、「シンアルの地に平地を見つけて、そこに住んだ」(2)。「シンアルの地」は「メソポタミア地方」のことで、後のバビロニア、現在のイラク南部。その地域には、チグリス・ユーフラテス川も流れていて肥沃な「平地」であった。

当時、人々は「一つの話ことば、一つの共通のことば」(1)を話していた。お互いに言葉が通じたので、意思や思考や感情を伝え合うことが出来た。そのため、人々は、互いに協力し合い、文明も発展した。「彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。」(3)

火で焼いた「れんが」は強度が高く、大きな建物を建てることを可能にした。「瀝青」とは「アスファルト」のことで、「漆喰」よりも強力な接着力があった。これらの技術の発達によって、それまでよりも高い塔を建てることが出来た。

こうして、人々は自分たちの力に自信を持ち、自分たちの力を誇るようになった。彼らは「自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう」(4)と言い始めた。そこで、神は人々がそれ以上町を建て、塔を築けなくするため、「彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう」(7)と言われた。こうして、人々は互いに言葉が通じなくなり、もはや意思の疎通が出来なくなった。一緒に仕事にならなくなり、そして、「町」も「塔」も建てることも出来なくなった。そして、「主が彼らをそこから地の全面に散らされた」(8) そのため、「その町はバベル」(「混乱」)と呼ばれた」(9)。

2.バベルの人々の問題点

みんなで一致協力して町を建て、塔を築くことの何が問題だったのか。一致協力するということはとても大切。なぜ神はそれを止めさせたのか。町を建て、塔を築くこと自体には問題ないが、その目的や動機に問題があった。彼らは、どのような目的や動機を持っていたのか。

① 自分たちの名を上げようとした(高慢の罪)

人々が「頂が天に届く塔を建て」ようとした目的や動機は、自分のたちの「名」を上げることだった。「天」とは神のおられる所であり、人々は自分たちを神と同じ位置に置こうとし、自分たちも神のようになろうとした。それは、神に対する高慢であり反逆であった。バベルの塔は、自分が神のようになろうとしている人間の姿であった。

サタンは、神に仕える御使いだったが、「自分の美しさに高ぶり」(エゼ28:17)、「私は天に上ろう」、「いと高き方のようになろう」(イザ14:13-14)とした。そのため、彼は天から落とされてしまった。また、エデンの園で、エバも悪魔から「神のように」(創3:5)賢くなれると誘惑され、神の言葉に背き、罪を犯してしまった。

私たちが高く上げなければならないのは、自分たちの「名」ではなく、イエス・キリストの御名(エペ1:20-23)。私たちが奉仕をする時、私たちの心の中にある動機や目的が問われる。自分たちが栄光を受けようとしているのか、主に栄光を帰そうとしているのか。自分たちの「名」ではなく、主の御名があがめられることを求めなければならない。イエス・キリストが高く掲げられるなら、人々は引き寄せられてくる(ヨハ12:32)。

② 自分たちが散らされないようにした(不従順の罪)

神の御心は、人類が全地に増え広がり、神の支配(国)を実現すること。神は、人間を創造された時、人間を祝福して言われた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」(創1:28) また、大洪水の後、神はノアたちを祝福して言われた。「あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ。」(創9:7) 神は、ご自身の民が全世界に増え広がって、神の秩序をもって世界を治め、神の国を実現することを望んでおられた。

しかし、バベルの人々は「地の全面に散らされるといけないから」(4)と「町」を建てた。古代の「町」は大抵は「城壁」で取り囲まれていた。人々は、自分たちが「散らされ」ないために、「城壁」で取り囲んだ「町」を建てた。「地の全面に散らされ」ないようにするということは、神の御心に反することだった。

教会で共に礼拝をささげ、互いに交わりを持つことは、素晴らしいこと。しかし、自分たちだけの小さな世界を築き上げ、その中に留まってしまうことはないか。神の御心は、神の民が全地に散らされ、福音を満たし、神の国を実現すること。イエスは、弟子たちに「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタ28:19)、「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マル16:15)と命じた。初代教会は、聖霊によって誕生し、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで」(使1:8)、主の証人とならなければならなかった。

しかし、彼らはエルサレムに留まり、ユダヤ人だけの教会となってしまった。そこで、神は教会に対する迫害が起こることを許された。それによって、信者たちは散らされ、「みことばの福音を伝えながら巡り歩いた」(使8:4)。また、アンテオケまで「散らされた人々」は、福音をユダヤ人だけではなく、「ギリシヤ人を話す人たちにも語りかけ」、ユダヤ人と異邦人の教会が誕生した(使11:19-21)。さらに、アンテオケ教会からパウロたちが派遣させ、世界宣教がなされていった。

 

五旬節の日、弟子たちは聖霊に満たされ「他国のいろいろなことばで話し始めた」(使2:1-4)。弟子たちは世界中から祭りに来た人々にそれぞれの言語で神の御業について語った。この出来事は、創世11章のバベルの出来事に重ね合わせて、「第二のバベル」と呼ばれる。全地に散って、イエス・キリストの御名をかかげ、福音を宣べ伝え、御国をもたらそう。

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