18.3.4.
アドナイ・シャロム : 平安なる主
士師6:24
神の名は、ヘブル語で「ヤハウェ」で、意味は「わたしはある」です。出エ3:14-15。
しかし、ユダヤ人は「主の御名」をむやみに唱えて冒涜しないように(出エ20:7)、
「ヤハウェ」とは呼ばず「アドナイ」(主)と置き換えて呼ぶようになりました。
この「アドナイ」に他の言葉が組み合わされ、神のご性質を示すものとなっています。
1.勇士と呼ばれたギデオン
イスラエルの民は、7年間、ミデヤン人によって、苦しめられていました。(1)
ミデヤン人たちの攻撃があまりもひどかったので、
ついにイスラエルの民は、助けを「主に叫び求め」ました。(6)
神が、イスラエルの民を救うために遣わした士師は、ギデオンでした。
しかし「ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打って」(11)いました。
ギデオンは、ミデヤン人に見つかって襲われないように、
「酒ぶね」の中に隠れながら、小麦の脱穀を行っていたのです。
ギデオンは、他のイスラエルの民と同じように、ミデヤン人を恐れていたのです。
そこに御使いが現れて言いました。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(12)
それに対して、ギデオンは、心の中に常にあった思いを言いました。
「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、
なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。
私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、
私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。」(13)
ギデオンは、神に対して不満な気持ちを持っていたのではないでしょうか。
私たちも、毎日の生活の中で、同じような思いを持っていないでしょうか。
ギデオンの問いかけに対して、御使いは答えました。
「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。…」 (14)
神は、ギデオンの問いかけには何も答えず、「あなたがその答えだ」と語られたのです。
いつまでも被害者意識を持つのではなく、立ち上がって戦うように命じられたのです。
しかし、ギデオンは言いました。
「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」(15)
それで、神は、ギデオンに「わたしはあなたといっしょにいる」(16)と語られました。
それでもギデオンは、主が共にいて下さるという証拠を見せてほしいと願いました。
ギデオンは、パンと肉と吸い物を供え物として用意し、御使いの前の岩に置きました。
御使いが杖でそれらに触れると、岩から火が燃え上がり、供え物を焼き尽くしました。
それによって、その御使いが神からの御使いであることが分かりました。(21-22)
しかし、ギデオンは、御使いを見てしまったことに恐れを感じてしまいました。
すると、主は「安心しなさい。恐れるな」(23)と語られました。
この「安心しなさい」は、ヘブル語で「シャローム」です。
そこで、ギデオンは、祭壇を築き「アドナイ・シャロム」(24)と名づけたのです。
2.主の臨在によって与えられる平安
「アドナイ・シャロム」とは、「主は平安」または「平安なる主」と訳されます。
「シャロム」は「シャローム」とも呼ばれ、今日も、ユダヤ人の挨拶の言葉となっています。
「シャローム」は一般的に「平和」と訳されますが、恐れや不安がなく、豊かなこと、
痛みも、悲しみも、欠けもなく、満ち足りている状態を示しています。
それは、単に、何も問題のない状況や、全てがうまくいっている状況ではありません。
自分が置かれている状況に関係なく持てる「平和」であり、
問題があってもなくても、物事が順調に進んでいてもそうでなくても、
どんな状況でも幸せを感じることができる「平和」です。
この「シャローム」は、神と一つになることによって得られます。
臆病者で小心者のギデオンに「シャローム」を与え、勇気を与えたのは、
「主が私と共におられる」という確信でした。
神は何度もご自身の民に「恐れるな。わたしがともにいる」と語られました。イザヤ41:10。
「エル・シャダイ」、全能なる神が共にいて下さるなら、何を恐れることがあるでしょう。
「アドナイ・イルエ」、備えたもう主が共にいて下さるなら、何も心配いりません。
しかし、頭で「主が私と共におられる」と知っているだけでは十分ではありません。
「主が私と共におられる」という確信は、主の臨在を体験する時に得られるのです。
ギデオンは、本当に臆病者で、気の小さい者でした。
「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と言われても、信じられませんでした。
「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。
わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われても、
自分は「最も弱く…一番若い」者で、そんな力などありませんと答えました。
主が再び「わたしはあなたといっしょにいる」と言っても、それでも信じられず、
「しるしを、私に見せてください」(17)と言いました。
ギデオンは、本当に主が共におられるという体験を求めたのです。
私たちに必要なことは、主の臨在を体験的に知るということです。
そのためには、主を求め、聖霊に満たされることが必要です。
イエスの弟子たちは、聖霊に満たされると、迫害をも恐れず、
イエスの証人として人々に福音を語り始めました。
彼らは、聖霊に満たされることによって、主の臨在を体験したのです。
どんなことがあっても、「主は私たちと共におられる」と確信を持つことが出来たのです。
イエスも復活された後、ユダヤ人たちを恐れていた弟子たちの前に現れて、
「平安があなたがたにあるように(シャローム)」(ヨハネ20:19)と言われました。
また、イエスは、この世のものとは違う平安を与えて下さいました。ヨハネ14:27。
神は、「アドナイ・シャロム」(平和なる主)と呼ばれるお方です。
私たちには、何か恐れ、不安、心配なことがあるでしょうか。
主は「安心しなさい。恐れるな」と語りかけて下さいます。
主の臨在を求め、主の御前に行き、主を求めましょう。聖霊の満たしを求めましょう。
主が私たちと共におられる時、本当の平和(平安)である「シャローム」が与えられます。