
20.7.12.
「カナンの地」でアブラムを待っていたのは、激しい「ききん」でした。アブラムは、この「ききん」という試練にどのように対処したのでしょう。
1.エジプト逃避の失敗
「アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って」(10)行きました。しかし、エジプトに避難することは、主の御心ではありませんでした。残念ながら、アブラムは、主の試験に失格してしまったのです。
① 主の導きを求めなかった
パレスチナが激しい「ききん」の時でも、エジプトは、ナイル川の豊かな水によって、豊かな収穫が得られました。そのため、人々はみな食べ物を求めて、エジプトに避難していたのです。アブラムも、当時の常識に従い、人々の流れに従って、エジプトに避難しました。しかし、エジプトに行くことについては、主から何の言葉も指示もありませんでした。ここには、主に祈ったり、助けを求めるアブラムの姿はありません。アブラムは、主の導きや御心を求めることなく、この世に従い、自分で決めたのです。
② 主の約束に留まらなかった
主からアブラムに与えられた祝福の地は、「カナンの地」でした。この「カナン」にいる時に、主の祝福がアブラムに注がれるのです。ですから、たとえ激しい「ききん」が来ても、主の約束に留まって、「主が祝福して下さる。守って下さる」と信じ、「カナン」に留まるべきであったのです。しかし、アブラムは、目に見えない主の約束に留まらず、目の前の状況に従いしまた。アブラムには、それが常識であり、良い事に思えたのでしょう。しかし、箴14:12には、「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」と警告されています。
③ 自分を守るためにうそをついた
アブラムのエジプト避難は、信仰から出たことではありませんでした。主に対する信仰と信頼が失われる時、不安と恐れが生じます。主が守って下さるという確信がないので、自分の力で自分を守ろうとします。そこから、自分を守るための嘘が生まれるのです。アブラムがそうでした。アブラムの信仰は、試練の中で失われてしまったのです。アブラムは、妻サライに「私の妹だと言ってくれ」(13)と頼みました。サライが美しかったため、自分が殺されて、サライが奪われることを恐れたからです。しかし、サライを「妹」ということにしておけば、アブラムは殺されることはありません。
2.信仰の原点に立ち返ったアブラハム
サライは「パロの宮廷に召し入れられ」てしまいました(15)。それで「パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった」(16)のです。アブラムは、「主の約束通りに祝福された」、「上手くいった」と思ったかもしれません。しかし「主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた」(17)。口語訳「はげしい疫病」、新共同訳「恐ろしい病気」、リビングバイブル「恐ろしい伝染病」。エジプトは、アブラムの不信仰と不従順のために、恐ろしい伝染病に襲われました。
パロと高官たちには、倫理的にも、法的にも何の違反もありませんでした。彼らは、アブラムからサライを奪ったのではなく、サライの言葉を信じ、アブラムに莫大な報酬も支払い、正当な方法でサライを召し入れました。悪いのはエジプトではなく、アブラムであり、アブラムが全ての問題の元であったのです。アブラムは、本来、「祝福の器」として国々に「祝福をもたらす者」となるはずでした。ところが、逆に何も悪くないエジプトに「災いをもたらす者」となってしまったのです。
しかし、この「ひどい災害」は、サライをアブラムに戻すための主の介入でした。サライがパロの妻になってしまったら、アブラムに子孫が与えられる約束は実現ません。アブラムの子孫を通して全ての国民を祝福するという主の計画は途絶えてしまいます。主は、「ひどい災害」によって、サライをパロの妻となることから守って下さったのです。パロとエジプトも、この「災害」によって、罪を犯すことから守られたのです。
パロは、「ひどい災害」の原因がサライにあることを知り、アブラムを責めました(18)。そして、これ以上災いが下らないために、アブラムをエジプトから強制退去させました。アブラムは、サライを返され、罰せられることなく、財産も没収されませんでした。
アブラムは、再び「ネゲブ」(13:1)へ帰って行きました。そして、「ベテル」の「初めに天幕を張った所まで」(13:3)戻りました。そして、「彼が以前築いた祭壇の場所」で、再び「主の御名によって祈った」のです。アブラムは、再び主を礼拝する者として歩み出したのです。それは、アブラムにとっての悔い改めであり、信仰の原点に立ち返ったということです。主の御心から離れてしまった時、もう一度、信仰の原点に立ち返ることが必要です。主は、「初めの愛から離れてしまった」(黙2:4)エペソの教会に言われました。「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」(黙2:5)
「信仰の父」と呼ばれるアブラムも、初めから完璧な信仰の持っていたのではありません。アブラムも、試練の中で、不信仰になり、主の御心から離れ、失敗してしまいました。しかし、そんなアブラムを主は見捨てず、再び主に立ち返らせて下さいました。私たちも、失敗してしまったり、主の御心から逸れてしまう愚かで弱い者です。しかし、主は、決して見捨てることなく、再び信仰へと導いて下さるのです。日々、主の前に、祈りと礼拝の祭壇を築き、主の御心を求め、主の約束に留まり、主を信じ、信頼して歩んでいきましょう(詩37:5)。
Filed under: アブラハムの信仰の旅 • 伊藤正登牧師