20.10.11.
ソドムとゴモラが滅ぼされた後(19章)、アブラハムは、ヘブロンからペリシテ人の町「ゲラル」(1)に移動しました。しかし、「ゲラル」で、アブラハムは失敗を犯してしまいました。
1.人を恐れて偽ったアブラハム
「ゲラルに滞在中」(1)、「アブラハムは、自分の妻サラのことを」「私の妹です」(2)と言っていました。そのため、「ゲラルの王アビメレク」は、宮廷に「サラを召し入れ」(2)てしまったのです。以前、エジプトに行った時も、サラのことを妹だと言って偽りました(12:13)。その時から20年以上経ちましたが、アブラハムは、同じ過ちを繰り返したのです。
その理由として、後に、アブラハムは、サラが自分の妻だということが知られたら、人々は自分を殺してサラを奪うかもしれないが、妹だったら、自分は殺されることはないと思った、と言い訳を言っています(11)。アブラハムがこのような偽りを言ったのは、アブラハムが人を恐れたからです。アブラハムは、自分を守るために、偽りを言ってしまったのです。私たちも、未信者の友人から、変に思われたり、仲間はずれにされることを恐れて、自分が教会に行っていることや、クリスチャンであることを隠していないでしょうか。
アブラハムが言ったことは、全くのウソではありませんでした。サラは、アブラハムの異母姉妹でしたから(12)、真実な部分もありました。しかし現在は、アブラハムの妻であることは確かでした。人が偽りを言う場合も、全くの偽りではなく、真実の中に偽りを混ぜて言うのです。あるいは、都合の悪い部分を隠して、事実の半分しか言わないのです。
聖書は、人を恐れるのではなく、主に信頼するようにと教えています(箴29:25)。人の目を恐れ、人の顔色を見ながら行動すると、正しい判断が出来なくなり、正しい行動が出来なくなってしまいます。しかし、主を信頼する時、主が私たちを守って下さるのです(詩56:11)。
2.救いの計画を守られた主
アビメレクがサラに近づく前に、主は「夢の中で、アビメレクにところに来られ」(3)、「あなたの召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である」(3)と語られました。このようなことを突然言われて、アビメレクは、大変驚いたことでしょう。そこで、アビメレクは、必死で自分の潔白を訴えしました(4-5)。主は、アビメレクが潔白であることをご存知でした(6)。アビメレクは、知らずに夫のあるサラを妻として、姦淫の罪を犯すところでした。しかし、主は、アビメレクがサラに触れることを防ぎ、罪を犯さないようにしたのです。
18節には、「主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を閉じておられた」とあります。アビメレクの妻もはしためも、誰も子どもを生まなくなってしまったのです(17)。これは、罪に対する罰ではなく、罪を犯さないようにするための警告だったのです。主は、私たちが罪を犯さないように、私たちに御言葉を語りかけて下さいます。また、時には、災いと思えるような出来事によって、私たちがそれ以上罪に進まないように警告を与えることもあるのです。Cf.伝7:14。
主は、アビメレクを罪から守られただけではありませんでした。サラ自身も、主の救いの計画も守られたのです。もし、サラがアビメレクに召し入れられることになったら、これからサラに生まれる子は、アブラハムの子でなくなってしまいます。サラを通して、アブラハムに子孫が与えられるという約束は、果たされなくなります。そうなると、アブラハムの子孫によってなされる救いの計画も無くなってしまいます。それで、主は、ご自分の計画を守り、成し遂げるために、ここで介入されたのです。
3.祝福を受けるアブラハム
主は、アビメレクに「あの人の妻を返していのちを得なさい」(7)と言われました。さらに、アブラハムは「預言者」(7)だから、祈ってもらうようにとも言われました。「預言者」とは、本来、「神からの言葉を人々に告げる者」のことですが、ここでは、「神に選ばれた者」という意味で使われていると考えられます。
アビメレクは、「翌朝早く」(8)、「アブラハムを呼び寄せ」、厳しく責めました(9-10)。本来なら、アビメレクは、アブラハムに対して怒り、罰を与えることも出来ました。しかし、アビメレクは、神を恐れる人であったので、アブラハムに対して何の害も加えることはありませんでした。アブラハムは、ゲラルの人々のことを「神を恐れることが全くない」と非難しましたが、アブラハムの方こそ、神を恐れていなかったと言えるでしょう。
アビメレクは、「アブラハムの妻サラを彼に返し」(14)、「羊」や「牛の群れ」や「男女の奴隷」を贈り物としてアブラハムに与えました(14)。さらに、アビメレクの「領地」に住むことを許可しました(15)。さらに、アビメレクは、アブラハムに「銀千枚」を贈りました(16)。こうして、アブラハムは、自らの過ちにも関わらず、守られ、多くの祝福を受けました。それは、アブラハムが立派な正しい人物であったからではありません。これは、主の一方的な契約によることでした。(アブラハム契約)
主は、アブラハムにとの契約の中で、「あなたを祝福」すると約束されました(12:2)。その契約は、主からの一方的な約束であり、アブラハムがどうなろうとも、アブラハムを守り、アブラハムを祝福する契約でした。この契約のゆえに、主は、不信仰になり、過ちや失敗を犯したアブラハムに対して、なおも真実を尽くされ、アブラハムを守り、導き、祝福し続けて下さったのです。
私たちも、信仰によって、アブラハムの子孫とされ(ガラ3:7)、アブラハムとともに祝福を受け継ぐ者とされました(ガラ3:9)。主は、ご自身の民を特別に扱われます(詩4:3)。主は、その約束のゆえに、私たちを守り、導き、祝福して下さるのです。それは、私たちが従順な時だけでなく、主に背を向け、自分勝手な歩みをしている時でも変わりません。私たちは、罪や過ちを悔い改めても、その後も同じ過ちを繰り返してしまいます。それにも関わらず、主の私たちに対する愛と真実は変わらないのです(Ⅱテモ2:13)。主は、ご自分が語られたことを守られ、必ず成し遂げられ、実現されます(イザ55:11)。何も恐れず、主に信頼して歩んでいきましょう。
Filed under: アブラハムの信仰の旅 • 伊藤正登牧師