23.1.1.

Ⅰサムエル記は、イスラエル士師時代から王政時代移行していく歴史を記しています。イスラエルとする神政政治からとする王政政治(君主制)へと移行しました。Ⅰサムエル記には、サムエル誕生生涯、最初の王サウル統治衰退ダビデ選び試練について書かれ、最後サウルで終わっています。またⅠサムエル記では、サウルダビデ対象的記述されています。ダビデへりくだり従って用いられていくのに対して、サウル高ぶり背いて見捨てられていきます。サムエル誕生は、母ハンナ祈り結果でした。どのような祈りがされたのでしょう。

1.神の前に出て熱心に祈る

ハンナは、エルカナ愛されていましたが(5)、子どもいないという悲しみがありました。ハンナを更に悲しませ傷つけたのは、エルカナのもう一人の妻ペニンナでした。ペニンナには「息子、娘たち」(4)がいましたが、ハンナエルカナ独り占めしていたので、ハンナ妬んでいたのです。それでペニンナは、「ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるように」(6)しました。そのため、「ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった」(7)のです。

エルカナは、家族連れて「毎年シロに上って、万軍の主を礼拝し、いけにえをささげて」(3)いました。ヨシュアシロに「会見の天幕」(幕屋・主の宮)を建ててから(ヨシ18:1)、イスラエルの民は、シロに行って、いけにえをささげ、礼拝するようになりました。そして、礼拝者たちは、ささげたいけにえ一部を「受ける分」(4)としてもらい、それを食べることによって、との交わりをもちました。

シロ礼拝をささげ、食事終わると、ハンナ立ち上がり(9)、祈りに行きました。そこで、ハンナは「主に祈って、激しく泣」(10)きました。ハンナは、自分の悲しみ苦しみ主なる神のところに持って行ったのです。実は、ペニンナにも悲しみがあったのです。それは、子どもはいるけれども、夫の愛受けられないということでした。ペニンナは、その不満ハンナぶつけていたのでしょう。しかし、ハンナ選んだのは、ではなくでした。ハンナは、に出て、「激しく泣い」て、呼び求め熱心祈ったのです。苦しみ悲しみにある時、は、私たちを招いておられます(詩50:15)。

2.心を注ぎ出して祈る

ハンナは、「心を注ぎだして」(15)祈りました。ハンナの内には、悲しみ怒りなど様々な思いがあったでしょう。ハンナは、全て思いを、注ぎ出してながらに祈りました。その祈りは、形式的祈りでも、綺麗祈りでもなく思いぶつけるような、神に訴えるような祈りだったのではないでしょうか。イエス自身も「大きな叫び声と涙とをもって」(ヘブ5:7)祈られましたは、私たちの叫ぶような、訴えるような祈りにも傾けて下さいます(詩62:5-8)。

ハンナが「長く祈って」(12)いる内に、ハンナ祈りは、言葉にならない祈りになりました。「心のうちで祈っていたので、くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった」(13)のです。それを見ていた祭司エリハンナが「酔っている」のだと思ってしまいました。そこで、エリは「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」(14)と声をかけました。しかし、ハンナは、「酔っている」のではなく、「主の前に」、「心を注ぎだし」(15)、「つのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです」(16)と答えました。

祭司エリには、ハンナが「酔っている」ように見えましたが、それはちょうど、ペンテコステの日に、聖霊満たされた弟子たちが、人々から「甘いぶどう酒に酔っている」(使2:13)ように見られたことと似ています。「心を注ぎだし」て祈るためには、聖霊助け必要です。どのよう祈ったらよいのか分からない時、聖霊助けて下さるのです(ロマ8:26-27)。

3.確信と平安が与えられるまで祈る

祭司エリは、「心を注ぎだし」て祈っていたハンナに「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」(17)と語りかけました。ハンナは、このエリ言葉によって、自分の祈り聞かれたという確信が与えられました。その結果ハンナには平安が与えられました。そして、それまでハンナは、「泣いて、食事をしようともしなかった」(7)のに、確信平安をいただいた後は、「帰って食事を」(18)するようになったのです。そして、「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(18)と記されています。口語訳では「その顔は、もはや悲しげではなくなった」となっており、リビングバイブルでは「ハンナは晴れやかな顔で戻って来ると」と訳されています。状況は、まだ何も変わっていませんでしたが、彼女変わったのです。現実には、まだ子ども与えられていませんでしたが、ハンナは、悲しみから喜びへと変えられたのです。

ハンナは、「長く」(12)、「主の前に」、「心を注ぎだし」(15)、祈る中で、が必ず祈り答えて下さるという確信与えられ心の平安与えられたのです。確信平安は、人間的理屈によってではなく祈りによって得られるものです。聖書には、「ハンナが主の前で長く祈っている間」(12)と記されています。ハンナは、確信平安与えられるまで忍耐をもって祈り続けたのです。Cf.ピリ4:6-7

 

「日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を」(20)産みました。ハンナはその子を「サムエル」(20)と名づけました。意味は「主に聞かれる」です。かつてハンナは男の子が生まれたら「その子の一生を主におささげします」(11)と誓いました。その誓い果たすために、サムエルが「乳離れ」した時、「その子を連れ上り、シロの主の宮に連れて」(24)行きました(26-28)。サムエルは、エリ育てられ神の声聞き分けられる者へと成長していきました。私たちも、神の前に出て、心を注ぎ出し、確信と平安が与えられるまで祈りましょう。

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