ベエル・シェバで神と出会ったイサク

創世記26:12-25

221023

私たちの周りには、優しく善良な人たちばかりとは限りません。時には、誰かに争いをしかけられたり、敵意を向けられたりするかもしれません。イサクは豊かになると、ペリシテ人たちに妬まれ、敵意を向けられました。このときイサクはどう対処したのでしょうか。御言葉から学びましょう。

1.争わず、平和を求めよう

彼はペリシテ人たちにねたまれ、井戸を埋められたり、出ていけと言われたりしました。父アブラハムの掘った井戸をイサクも掘りましたが、それは奪われました。移動して井戸を掘ってもペリシテ人たちは争いをしかけてきました。それでイサクは井戸に敵意とか争いという名前を付けました。しかし、彼は争わず、井戸を明け渡し、争いのない場所を求めて移動していきました。

私たちも誰かと争うよりも、平和を求めていく方が幸いなのです(Ⅰペテロ3:10-12)。自分で復讐してはいけません。神にゆだねましょう(ローマ12:17-21)。悪者たちのしたことに腹を立ててはいけません(詩篇37:7-14)。

その地域は水が非常に貴重でした。また井戸を掘るには、重労働しなければなりませんし、掘っても水が出るとは限りません。その井戸をふさがれたり奪われたりするのは大変な損失です。しかし、イサクはペリシテ人たちと争わず、それを彼らに明け渡しました。

イエスも同様の教えをしています(マタイ5:38-42)。物は奪われても、神がともにおられるということの方が価値があるのです。神がともにあるなら、どこへ行っても祝福されているのです。

2.主の導きを求めて進もう

イサクは新たな井戸を掘りに行きました。井戸を掘るのは苦労ですが、神が祝福しておられたので、井戸を掘るとそこから水が出てきました。神がともにおられるなら、井戸を失っても、また作り出せるのです。どこに行っても神がともにおられます(ヨシュア1:9)。私たちに対する神の愛は変わりません(ヘブル13:8)。神の愛から私たちを引き離すものは何もありません(ローマ8:39)。ですから、私たちは何も恐れる必要はないのです。

イサクは一つの井戸に固執せず、この世のものに未練を持たず、神を信頼し、この世の物は明け渡し、新しい道にすすんでいきました。

私たちも、神に信頼して、神とともに新しい土地を切り開くことは素晴らしいことです。私たちも悲しいことや辛いこと、腹立たしいことを経験したとき、そこに留まることはできません。前進しましょう(ピリピ3:13-14)。

3.主と出会い、主とともに住もう

イサクは井戸を掘って争いが起こると、移動していきました。すると次第に神がイサクに与える土地に導かれていきました。争いのない広い土地に導かれ、さらにベエルシェバへと導かれました。そこで神と会い、神からの祝福の約束を受けました(創世記26:24)。神に信頼し続けるなら、最後に神が与えてくださる土地にたどり着き、そこで主との出会うのです。

ベエルシェバは、神との出会いの場所です。それは、私たちにとって、祈りであり、礼拝の時です。

私たちが心を尽くして主を呼び求めるとき、そこに主はおられます。私たちに現れ、御言葉を与えてくださいます。主との出会いを体験し、主の御言葉を受けることは何という幸い霊的祝福でしょうか。

イサクはたくさんの財産をペリシテ人たちに明け渡してきました。しかし、それにも勝る主との出会いや御言葉を受けることで、大きな霊的祝福を得ました。

私たちも主との交わりを生活の中心に置きましょう。そこで主は私たちに御言葉を与え、栄光に富んだ霊的祝福を注いでくださいます(エペソ1:18-19)。

私たちが一番求めるべき場所は、主のおられるところです。そこで主と会い、また主のみことばを受け、祝福されるのです。私たちは主を求め、主の臨在の中にいることを求めましょう(ヨハネ15:5)。

 

イサクはペリシテ人たちにねたまれ、井戸を埋められ、追い出されました。移動しては井戸を掘りましたが、井戸はまた奪われました。これを繰り返していく中で、次第に神の導きの場所、神がイサクに与えた場所に導かれました。そこで神との出会いを体験し、神の御言葉を受け、神とともに生きることが始まりました。私たちもイサクのように、人々との争いを避け、平和を求め続けていきましょう。そして神を求め続け、祈りをもって主との交わりを深めていきましょう。神から御言葉を受け、神とともに歩みましょう。

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