18.1.1.
主に呼ばわろう
Ⅰ歴代4:9-10
Ⅰ歴代誌の1章から9章の系図の中で、
一人だけ詳しい説明が加えられている人物が「ヤベツ」です。
「ヤベツ」とは、「悲しみ」また「苦しみ」という意味です。
それは、彼の母親が「悲しみのうちに…産んだ」子どもだったからです。
「ヤベツ」は、一生、「悲しみ」、「苦しみ」という名前を背負いながら生きていました。
しかし、「彼は兄弟たちより重んじられた」とあります。
新共同訳では「最も尊敬されていた」であり、新改訳の注には「かしらであった」とあります。
それは、「ヤベツ」の祈った祈りに秘訣があるのではないでしょうか。
1.神の大いなる祝福を求める
まず、「ヤベツ」が祈ったことは、「私を大いに祝福し」て下さいというものでした。
この祈りは、自己中心で、高慢で、貪欲な祈りに聞こえるかもしれません。
しかし、彼の祈りは、神の前に真にへりくだった祈りであり、飢え渇きの祈りでした。
「ヤベツ」は自分の置かれた境遇が決して恵まれたものでないことを知っていました。
しかし、彼は、自分の恵まれない境遇を嘆き、「どうせだめだ」と諦めませんでした。
「ヤベツ」は、神だけを頼りにして、神に呼ばわり、祝福を切に祈り求めたのです。
私たちは、「ヤベツ」のように、神だけにより頼み、神の祝福を求めているでしょうか。
いつの間にか、神への期待が薄れ、信仰が冷たくなってしまっていないでしょうか。
マルコ4:25-34。長血の女は、イエスに信仰の手を伸ばして、イエスの着物に触った時、
イエスから力が流れて来て、完全に癒されました。
彼女は、自分の境遇を嘆いたり、人生を諦めたりしていませんでした。
イエスに望みをかけ、イエスに信仰の手を伸ばしたのです。
私たちも、主の御前に進み出て、信仰をもって、大胆に祝福を求めましょう。ヘブル4:16。
2.自分の領域の拡大を求める
次に「ヤベツ」は、「私の地境を広げてください」と祈りました。
「ヤベツ」は、決して現状に満足せず、更なる発展を熱心に求めたのです。
彼は、決して自分の限界を決めてしまうようなことはしませんでした。
私たちには「ヤベツ」のような熱心な飢え渇きがあるでしょうか。
「自分が出来ることはここまでだ」と、自分自身に限界を設けてはいないでしょうか。
マタイ14:22-33。イエスが湖の上を歩いて、舟の弟子たちに近づかれた時、
ペテロは「私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言いました。
これは、常識的には、非常に馬鹿げた願いでしたが、
ペテロは、常識的には不可能なことでも、イエスなら可能として下さると信じたのです。
ペテロは、イエスに自分の限界を越えさせて下さいと願ったのです。
ペテロの願を、イエスは拒んだり、否定することもせず、ただ「来なさい」と言いました。
すると、ペテロは、湖の上を歩き出したのです。
ペテロは、イエスによって、自分の境界線、限界を越えさせていただきました。
主は、考えたこともないような、大いなる御業を現して下さいます。Cf.Ⅰコリント2:9。
3.御手がとともにあるように求める
「御手」とは、「神の力強い助け、守り、導き」等を表す言葉です。
神は、「力強い御手」によって、イスラエルを救い出されました。出エジプト13:3,9,14等。
ペテロが捕らえられた時、教会はこのように祈りました。
使徒4:30。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、
しるしと不思議なわざを行わせてください。
また、アンテオケにおいて、「主の御手が彼らとともにあったので、
大ぜいの人が信じて主に立ち返った」(使徒11:21)とあります。
このように、「御手が私とともにあり」ますようにという祈りは、神が常に共にあって、
その御力をもって、私たちを助け、守り、導いて下さるようにという祈りです。
すなわち、主の臨在を求める祈りでもあるのです。
小さな子供が親無しでは生きていけないように、
神無しでは生きていけないという、神に対する求めを告白するのです。
この祈りは、「ヤベツ」が「悲しみ」の人生の中にあるからこそ求めた祈りです。
もし、「ヤベツ」が何一つ不自由のない恵まれた人生を送っていたら、
このように熱心に神を求めることはなかったかもしれません。
4.災いから守られるように求める
「ヤベツ」は、最後に「わざわいから遠ざけて
私が苦しむことのないようにしてくださいますように」と祈りました。
この祈りは、「悲しみ」の人生を送っていた「ヤベツ」の切実な願いであったのです。
私たちは、罪に満ちた、堕落した世界で生きています。
ですから、この世には、様々な問題や困難などの試練があります。
そのようなものから、守られるようにと祈ることは必要です。
また、「わざわい」という言葉は、英語の聖書では「evil」(悪)と訳されています。
敵である悪魔は、常に私たちのスキ(気のゆるみ・油断・つけ入る機会)を伺い、
私たちを悪へと誘惑したり、偽りへと導こうとしています。
それは、私たちを神と神の恵みから引き離すためなのです。
ですから、イエスも、マタイ6:13の「主の祈り」の中で、
「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈るように教えられました。
また、イエスご自身も弟子たちのためにそのように祈られました。ヨハネ17:15。
「ヤベツ」は、「神に呼ばわって言った」とあるように、大声で熱心に祈りました。
イエスも「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」ました。
「そしてその敬虔のゆえに聞き入れられ」たのです。へブル5:7。
そして、「ヤベツ」は、「願ったことをかなえられ」、重んじられた者、尊敬された者、
かしらとなる者となることが出来ました。
私たちも「ヤベツ」のように、心から主に叫び、祈り求めましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師