18.6.10
ヨハネの福音書における、イエスの4番目の奇跡は、5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人以上の人々を養うという奇跡でした。この奇跡は、私たちに何を教えているのでしょうか。
1.信仰のテスト
イエスと弟子たちは「ガリラヤの湖」すなわち「テベリヤの湖」の「向こう岸」に行きました(1)。それは、伝道から帰ってきた弟子たちの休息のためでした(マルコ6:31)。ところが、「大ぜいの人の群れ」(2)がイエスの後を追ってやって来ました。そのような彼らをイエスは拒むことをせず、喜んで迎えました。やがて、日も暮れてきましたが、彼らは食事のために何の準備もしていませんでした。その時、弟子たちは、イエスに「この群衆を解散させてください」(ルカ9:12)と言いました。しかし、イエスは、「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい」(ルカ9:13)と言われました。特にピリポには、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」(5)と尋ねました。イエスは、「ピリポをためしてこう言われた」(6)のです。イエスのこの問いかけは、ピリポの信仰のテストであったのです。イエスは、ピリポがどれだけ信仰があるかを試されたのです
同じように、神は、私たちにも、どれだけ信仰があるか試されることがあります。そのため、神は、私たちの人生に、敢えて様々な問題が起こることを許しておられます。何も問題がなければ、神を信じることも、神に感謝することも、従うことも簡単です。しかし、問題の中で、私たちがどれだけ神を信じ、信頼しているのか、本当に神に従うことが出来るかどうか、試されるのです。
アブラハムも、どれだけ神を愛し、神に信頼し、神に従うかを試されました。創世22章。アブラハムは、何の疑いも躊躇もなく、イサクをささげようとしました。アブラハムは、神が必ず代わりのいけにえの羊を用意して下さると信じていたのです。それによって、アブラハムには本当に信仰があることが証明されました。その結果、アブラハムは大いに祝福された者となったのです。
私たちも何かの問題に直面した時、それを神からの信仰のテストとして受け止めましょう。
2.弟子たちの答え
ピリポは、すぐに頭の中で計算して、必要な金額を考え出しました。そこには男が約5千人いましたから、女や子供も入れたら1万人ほどいたと考えられます。ですから、ピリポは、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」(7)と答えました。
「二百デナリ」は労働者二百日分の給与の金額です。ピリポは、大金があっても、「足りない、無理だ、不可能だ」という答えを出しまた。
弟子の一人アンデレは、「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹」持っている「少年」をイエスのもとに連れて来ました(9)。当然、そのような僅かばかりのものでは、大群集をの腹を満たすことは出来ません。それでアンデレも「こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」(9)と言いました。
こうして、弟子たちは、イエスのテストに対して、「出来ません」というような、否定的な答えしか出来ませんでした。これまで弟子たちは、イエスによる数々の奇跡を見てきたはずです。しかし、この時、彼らは、目の前の現実や状況しか見ることが出来なかったのです。目の前の困難や問題ばかりに目がとらわれてしまい、信仰を見失ってしまっていました。
私たちも、目の前の困難や問題ばかりに目がとらわれてしまい、信仰を見失ってしまうことはないでしょうか。ピリポのように計算して、論理的、合理的に考え、「それは出来ません」と答えたり、アンデレのように「これでは役に立たない」と不足を嘆いてしまうことはないでしょうか。
3.イエスの答え
「イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分け」(11)ました。イエスは、食べる物がないことについて、嘆いたり、文句を言ったりしませんでした。また、父なる神に、自分たちの必要が満たされるように祈ったのでもありません。イエスは、ただ父なる神に「感謝をささげ」たのです。
死んで4日経っていたラザロをよみがえらせた時も、イエスはこう祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。」(ヨハネ11:41-42)
イエスが感謝の祈りをすることが出来たのは、父なる神に対する絶対的な信頼を持っていたからです。イエスは、父なる神が全ての必要をご存知で、全ての必要を満たして下さることを信じていました。
私たちも、父なる神に対する絶対的な信頼が必要です。私たちの父なる神は、良い父であり、私たちの必要を全て知ってかられます(マタイ6:31-32)。私たちの父なる神は、私たちに良いものを与えて下さいます(マタイ7:11)。父なる神が、良いお方であり、良いものを与えて下さり、良いことをして下さる、ということを信じ、信頼することが必要です。そして、神への信頼は、感謝することによって表されるのです。
イエスが弟子たちに求めておられた答えは、父なる神への信頼だったのです。主に信頼して、感謝するということだったのです。神は、私たちが自分の知恵と力で何とかしようとするのではなく、私たちが神を信じ、信頼することを求めておられるのです。
人々は、「十分食べ」(12)ることが出来ました。共観福音書には「満腹した」とあります。そして、「余ったパン切れ」を「むだに捨てないように集め」たところ(12)、「余ったもので十二のかごがいっぱいに」(13)なりました。
神は、私たちの人生に問題が起こることを許しておられ、私たちがどれだけ神を信じ信頼しているか、信仰のテストしておられるのです。どのような時にも、神を信じ、信頼し、感謝をささげようではありませんか。
神は、私たちの全ての必要をご存知であられ、私たちに良いものを与えて下さり、良いことをして下さる良い天のお父様です。