18.3.25.
受難週のキリスト
Ⅰペテロ2:22-24
受難週は、イエスがエルサレムに入城してから、十字架で死なれるまでの一週間です。
この週、私たちを救うために苦しみを受けられたイエスを特別に覚えます。
今日は、受難週の主な出来事を通して、イエスがどのようなお方であるか学びます。
1.エルサレム入城…平和の王
マルコ11:1-10。受難週の日曜、イエスは「ろばの子」に乗ってエルサレムに入られました。
このことは、4つの福音書全てに共通して記されている重要な出来事です。
「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こった」(マタイ21:4)ことでした。
その預言とは、旧約聖書のゼカリヤ9:9のキリスト到来の預言です。
群衆は「ホサナ」と叫んで、イエスをキリストすなわち王として迎えました。Ⅱ列王9:13。
彼らが考えていたキリストは、イスラエルをローマの支配から武力によって解放し、
再びイスラエル王国を復興してくれるキリストだったのです。
しかし、イエスは、そのような政治的・軍事的な王として来られたのではありません。
イエスは、私たちを罪と死の支配から解放し、
神との平和をもたらす「平和の王」として来られたのです。
ですから、イエスは、戦いのための馬ではなく、「ろばの子」に乗って来られたのです。
イエスは、私たち人間を罪の支配から解放し、神と和解させ、
神と共にある平安(シャローム)な人生に導くために来られたのです。
2.最後の晩餐での洗足…仕えるしもべ
ヨハネ13:1-16。イエスと弟子たちは、「過越の祭りの前」(1)に夕食を共にしました。
ユダヤでは、外から帰って来た時には、しもべが汚れた足を洗うことになっていました。
しかし、弟子たちの中には、誰もしもべとなって足を洗おうとする者はいませんでした。
その時、イエスは「上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれ」
そして「たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、
腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(4-5)たのです。
これは、しもべのする仕事であり、しもべの姿でした。
イエスは、弟子たちにへりくだって、しもべとして仕えるという模範を示されたのです。
イエスは、「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、
あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、
かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、
自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイ20:27-28)と言われました。
イエスは、私たちを救うために、「平和の王」として来られましたが、
自らへりくだり、しもべとなり、仕える者となって下さったのです。
そして、私たちを救うために、十字架の上でご自身の命をも与えて下さったのです。
3.ゲッセマネの祈り…従順な者
マルコ14:32-42。夕食後、イエスは「ゲッセマネという所に来て」(32)祈りの時を持ちました。
その際、イエスは「深く恐れもだえ始められた」(34)とあります。
そして、「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにようにと」(35)祈り、
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。
どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、
あなたのみこころのままを、なさってください」(36)と祈られました。
「この杯」とは、イエスがこれから受けようとしている十字架での「苦しみ」のことです。
イエスの最も辛い「苦しみ」とは、父なる神との分離という苦しみです。
しかし、イエスは、十字架の上で、全人類の罪を身代わりに負われ、呪われた者となり、
父なる神にも見放され、見捨てられてしまったのです。マルコ15:34。
イエスは、人間的な思いでは、この十字架の苦しみを逃れたいと思われましたが、
「わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈られました。
そして、その後、兵士たちがイエスを捕えに来た時も、
「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(ヨハネ18:11)と言って、
逃げることもなく、戦うこともなく、兵士たちに自らを明け渡されたのです。
「キリストは…ご自分を無にして、仕える者の姿をとり…自分を卑しくし、
死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:7-8)
イエスは、私たちを救うために、父なる神の御心に従順に従われました。
4.ピラトの前での裁判…罪人の身代わり
ルカ23:1-25。宗教的指導者たちは、「イエスをピラトのもとに連れて」(1)行きました。
彼らは、イエスをピラトに訴え、死刑にするように求めたのです。
ピラトは、イエスについて色々と取り調べましたが、イエスには何の罪もなく、
「この人には何の罪も見つからない」(4)と言いました。
それでも、宗教的指導者たちは、イエスを訴えましたが、
ピラトは何度もそれを否定しました(14,15,16)。
そして、人々は、イエスの釈放ではなく、バラバの釈放を願ったのです(18-19)。
再び、「ピラトは、イエスを釈放しようと」(20)努力しました。
彼は「祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていた」(マルコ15:10)のです。
ピラトは、何とかイエスを釈放しようとしましたが(22)、
人々は、「十字架につけよるよう大声で要求し」、「そしてついにその声が勝った」(23)のです。
こうして、ピラトは、「暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願いどおりに釈放し、
イエスを彼らに引き渡し好きなようにさせ」(25)ました。Cf.マルコ15:15。
このように、何一つ罪のないイエスが、罪深いバラバの代わりに罪ある者とされたのです。
イエスは、私たち罪人の身代わりとなって、十字架にかかられたのです。
人々は、十字架上のイエスをののしりました(マルコ15:30-31、ルカ23:39)。
そのような中で、イエスは、十字架の上で「赦し」(マルコ23:34)を祈られました。
イエスは、「平和の王」、「仕えるしもべ」、「従順な者」、「罪人の身代わり」となられました。
イエスは、私たちを救うために、自ら十字架へと向かわたのです。Ⅰペテロ2:22-24。
心からイエスに感謝し、イエスに従って歩む者となりましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師