20.8.2.

アブラムの生涯は、常に試練の連続、信仰のチャレンジの連続でした。14章では、ロト一家が戦争に巻き込まれ、連れ去られるという試練がありました。この試練の時には、どのような信仰のチャレンジがあったのでしょう。

1.ロトを救出したアブラム

当時、「ヨルダンの低地」である死海周辺には「ソドム」、「ゴモラ」、「アデマ」、「ツェボイム」、「ツォアル」という5つの小さな都市国家がありました(2)。この地域は、「エラム」(メソポタミア東部)の王「ケドルラオメル」によって、「十二年間」支配されていました(4)。しかし、「十三年目」に、死海周辺の5人の王たちは、「ケドルラオメル」の支配から逃れるために、反乱を起こしました。そこで、「十四年目」に「ケドルラオメル」は、死海周辺の王たちを攻撃するために、メソポタミアの3人の王たちと共に、パレスチナに遠征して来ました(5)。死海連合軍は、「シディムの谷で彼ら(メソポタミア連合軍)と戦う備え」(8)をしました。しかし、死海連合軍は、メソポタミア連合軍に負けてしまいました。王たちは逃げ、財産や食料は略奪され、人間は捕虜として連れて行かれました(10-11)。

この時、「ソドムに住んでいた」ロト一家も連れ去られてしまったのです(12)。かつてアブラムと分かれる時、ロトはよく潤った「ヨルダンの低地」を選びました。ロトは、その土地が豊かさをもたらしてくれると考えましたが、戦争に巻き込まれ、自分も家族も財産も全て奪われることになってしまったのです。Cf.マコ8:35

そこで、アブラムは、ロトを救出するために、「しもべども三百十八人」を召集し、メソポタミア連合軍を追跡し、イスラエルの北端の町「ダン」で追いつきました(14)。そして、ロトとその家族と財産、ソドムの住民や財産も奪い返すことが出来ました(16)。遊牧民でしかないアブラムが、わずか300人程の兵力で、メソポタミアの5人の王の連合軍に勝利したということは驚くべきことです。そこには、神の祝福があったのです。

2.十分の一をささげたアブラム

「メルキゼデク」は、「パンとぶどう酒を持って」(18)アブラムを迎えに来ました。この「メルキゼデク」は、イエス・キリストのひな型でした。ヘブ7:1-3には、「メルキゼデク」について次のように説明されています。

サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でした。(ヘブ7:1)

・彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。(ヘブ7:2)

・父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく

神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。(ヘブ7:3)

ダビデは、詩110:4で、キリストについて、「あなたは、メルキデゼクの例(位)にならい、とこしえの祭司である」と預言しました。

「メルキゼデク」は、大勝利をおさめたアブラムを「祝福」する祈りを捧げました(19-20)。「メルキゼデク」は、アブラムが自分の力で「敵」に勝利したのではなく、「いと高き神」がアブラムの手に「敵を渡された」ことを示しました。

それゆえ、「アブラムはすべての物の十分の一を彼に与え」(20)ました。アブラムは、「すべての物の十分の一」をささげることによって、全てのものが神から与えられたものであることを表明し、神に栄光を帰したのです。十分の一のささげものとは、私たちに与えられた全ては、神からのものであって、神からの祝福であるということを認め、その一部を神にお返しする信仰の表明です。アブラムは、わずか318人で強大な軍隊に勝利したことで傲慢になりませんでした。自分の手柄を誇り、自分に栄光を帰してしまうことはありませんでした。全てのものを備えて下さった神に栄光を帰したのです。

3.ソドムの王の申し出を断ったアブラム

「ソドムの王」は、「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください」(21)と言いました。原文では、「人は私に返せ、財産はお前が取れ」と訳され、「人々は私のものです。奪い返したものは戦利品として与えよう」という意味になります。そこには、「人々」も「財産」も全て自分のものであるという考えが見られます。そして、「ソドムの王」がアブラムに分け与えているような感じさえ受けます。「ソドムの王」の言葉には、アブラムに対する感謝が全く見られません。また、この勝利が神の力と助けによるものであるという意識も全くありませんでした。「ソドムの王」の提案は、アブラムに戦利品を山分けしようという提案でした。全て自分の力で得たものであり、全て自分のものにしようとしたのです。神に対する感謝も、神にささげるという考えもありませんでした。

そのような「ソドムの王」に対して、アブラムは、「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないためだ」(22-23)と答えました。当時、戦争で勝った者は、その戦利品を全て受け取ることが出来ました。しかし、アブラムは、戦利品を一切受け取りませんでした。それは、「ソドムの王」が「『アブラムを富ませたのは私だ』と言わないため」でした。それは、単に「ソドムの王」に借りを作ってしまわないためだけではありません。本来、神がたたえられなければならないのに、「ソドムの王」に栄光が取られてしまわないようにするためでした。すなわち、神の栄光に傷が付くことを避けるためでした。こうして、アブラムは、神に栄光を帰せるようにしたのです。

 

自分が成功した時に、自分が栄光を受けたいという誘惑があります。たとえ、自分に才能があり、自分で努力した結果であっても、神の助けがなかったら、本当は何も成し得なかったのです(箴10:22)。物事が上手くいった時こそ、神の前にへりくだることが必要です(ヤコ4:6,10Ⅰペ5:5-6)。神こそ、私たちの祝福、勝利、成功の源です。アブラムのように、常に神に栄光を帰す者となりましょう(詩29:1-2)。