17.10.1.
無理やり負わされる十字架
マルコ15:21
歴史上ただ一人、イエス様の十字架を背負った人がいます。クレネ人シモンです。
僅か1節の短い記述ですが、マタイ、マルコ、ルカの福音書に記述されています。
それだけ重要な出来事であったということですが、どんなことが教えられるのでしょう。
1.無理やり十字架を負わされることがある
イエス様は、私たちの罪のために身代わりに死ぬため、
重い十字架を背負い、「ゴルゴタ」(どくろ)と呼ばれる処刑場へと向かわれました。
イエス様の体は、既に極度に衰弱し切っていました。
なぜなら、イエス様は、一晩中の審問のために引き回され、一睡もしていませんでしたし、
39回の鞭を受けて、体は傷つきボロボロになっていたからです。
ですから、途中、何度も、イエス様は、つまずき倒れられました。
その時、ちょうど「シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通り」かかりました。
シモンは、過越しの祭りのために、エルサレムに来ていて、たまたまそこを通りかかり、
ただイエス様が十字架を担いでいる姿を見物していただけでした。
伝説によると、イエス様は、ちょうどクレネ人シモンの前で倒れてしまい、
ついに十字架を背負って歩くことが出来なくなってしまいました。
すると、兵士たちが「イエスの十字架を、むりやりに彼に負わせた」のです。
シモンは、恥ずかしく、惨めで、情けなくて、逃げ出したい気持ちだったでしょう。
その日は、シモンにとって、人生で最低で最悪な日に感じられたことでしょう。
十字架とは、処刑道具であり、決して美しいものでも、好ましいものでもありません。
十字架は、苦痛であり、避けたいものです。
出来ることなら、十字架や苦しみは避けたいものですし、恵みだけ頂きたいです。
しかし、私たちも「無理やり負わされる十字架」があるのです。
2.私たちが負うべき十字架
私たちには、どのような十字架を背負わされるのでしょうか。
① キリストのための苦しみの十字架
「キリストのための苦しみ」(ピリピ1:29)とは、信仰をもって歩むうえでの「苦しみ」です。
神様を認めない社会で、神様に従い、御言葉に従って生きようとすると、
この世の価値観、考え方、生き方との摩擦や衝突を生じることもあります。
そのため、この世の人々から、変に思われたり、悪く言われたり、
仲間外れにされたり、いじめに合うこともあるかもしれません。
信仰のゆえに、この世の人々から憎まれることさえあり得るのです。ヨハネ15:19。
それが「キリストのための苦しみ」です。Ⅱテモ3:12。
② 自我に死ぬという十字架
ルカ9:23。十字架は「死」を意味しています。
「自分の十字架」を負うということは、「自我に死ぬ」ということです。
イエス様に従って生きる中で、時には、自分の思い、願い、計画などを捨てたり、
自分の考え方やライフスタイルを変えることが求められることがあります。
それは、「自我に死ぬ」ことがなければ出来ないことです。
そうでなければ、イエス様に従い、仕え、ついて行くことは出来ません。ルカ14:27。
③ 主のための働きという十字架
私たちが負うべき十字架には、「主のための働き」もあります。
私たち一人一人には神様からの「負うべき義務」、「重荷」(ガラテヤ6:5)があります。
シモンが無理やり十字架を背負わされたように、
神様の働きの一部を担うようにと、何かの奉仕に引き込まれてしまうこともあるでしょう。
それは、自分にとって不名誉なもの、恥、嫌なことかもしれません。
しかし、逃げたり、投げ出したりしないで、その十字架を負うのです。
3.十字架は栄光に変えられる
初代教会において、このシモンは、よく知られていた人物だったのでしょう。
使徒13:1のアンテオケ教会の指導者たちに、「ニゲルと呼ばれるシメオン」が入っています。
「シメオン」は「シモン」のへブル名であり、「ニゲル」はアフリカの黒人のことです。
そして、シモンの出身地「クレネ」はアフリカにありました。
ですから、この「シメオン」は「クレネ人シモン」であると考えられます。
また、ローマの教会には「ルポス」という信者がいて、「主にあって選ばれた人」と呼ばれ、
パウロはルポスの母を「私との母」と呼ぶほど愛し慕っていました。ローマ16:13。
この「ルポス」とは、シモンの息子の一人で、シモンから信仰を受け継いだのでしょう。
イエス様の十字架を負った後、シモンは、イエス様がどなたなのか、
どうして十字架にかかられて死なれたのか分かったのでしょう。
シモンは、イエス様を信じ、アンテオケ教会の指導者にもなっていたのです。
無理やりに負わされた十字架の経験が、シモンの人生を大きく変えたのです。
シモンは、無理やり十字架を負わせられた時、
その十字架は、恥、不名誉なこと、嫌なことでしかありませんでした。
しかし、後で、シモンは、イエス様が神の御子キリストであることが分かったのです。
その時、自分がイエス様の十字架を負うことが出来たことを誇りに思ったことでしょう。
イエス様の十字架を背負ったのは、人類の歴史の中で、シモンただ一人だけです。
シモンは、世界中で誰も出来ない栄誉なことをしました。
十字架は、その時には嫌なこと、不名誉で、惨めで、悲しいことと感じられても、
後には、栄誉なこと、幸いなこと、祝福、喜び、神様の栄光に変えられるのです。
ルカ23:26には、「この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた」とあります。
この十字架を負ってイエス様に従う姿こそが、イエス様に従う者の姿です。
私たちの前には、私たちのために十字架にかかって、
死んで下さったイエス様が歩んでおられます。
そのイエス様の後ろ姿を見ながら、イエス様から目を離さず、
私たちも十字架を追って、イエス様の後を追って行くのです。へブル12:2-3。
クレネ人シモンのように十字架を負い、イエス様の後について行きましょう。
Filed under: 伊藤正登牧師