ヨハネ4:1-42
25.8.10.
私たちはみな、心を満たしてくれるものを求めている。心の満たしは何によって、どのようにして得られるのか。
1.渇く者のところまで来て下さるイエス
イエスは「ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。」(3)「しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」(4) イスラエルの国土は、南から北に「ユダヤ」、「サマリア」、「ガリラヤ」となっていた。ユダヤ人がユダヤとガリラヤを行き来する場合、サマリアを避け、ヨルダン川の東側の道を迂回するルートを通っていた。
なぜなら、9節に「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」とあるように、ユダヤ人とサマリア人の関係はあまり良いものではなかったから。サマリア人は、ユダヤ人と異邦人との混血の民族であり、純粋なユダヤ人でないため、ユダヤ人から嫌われていた。
BC722 年、アッシリア捕囚の際、北イスラエル王国のユダヤ人たちの多くが、アッシリアなどの他の地域に捕え移され、この地域に他の民族が移り住むようになった。そして、そこに残っていたユダヤ人と異邦人との雑婚によって混血が生じ、ユダヤ人としての純粋性が失われてしまった。これがサマリア人。さらに、異邦人たちの宗教との混合によって信仰的にも純粋性が失われた。そのため、ユダヤ人はサマリア人を嫌うようになった。
しかし、イエスは、敢えてサマリアを通るルートを選ばれた。それは、一人のサマリアの女を救いに導くためだった。彼女の心は、霊的に飢え渇いていて、救いを必要としていた。神の御子であるイエスは、彼女に会う前から彼女のことを全てご存知であった。
イエスは「スカルというサマリアの町に来られた」(5)。「そこにはヤコブの井戸があった。」(6) 「スカル」は「シェケム」(現ナブルス)の東にあり、ヨセフ族の所有地だった(ヨシ24:32)。そこには、ヤコブが掘ったと言われている「ヤコブの井戸」が今もある。深さは約30m。
「イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。」(6) イエスは神の御子(神ご自身)ではあるが、私たち人間と同じ肉体をとって来られたので、私たちと同じように疲れを覚えたり、喉の渇きを覚えることがあった。イエスは「その井戸の傍ら」で休んでおられた。
「時はおよそ第六の時であった」(6)。現代の時間で「正午ごろ」、お昼時。「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。」(7) 普通は、日が高く、日差しも強く、暑い時間帯に、一人で水を汲みに来ることはない。朝方や夕方の日が傾いて、涼しい時間に外で活動するもの。このような時間帯に水を汲みに来たのは、人目を避けるためだったと考えられる。彼女は、何か後ろめたいものがあり、他の人たちと会いたくなかった。彼女こそ心の満たし、魂の救いを必要としている人だった。イエスは、彼女の内にある問題、心の渇き、彼女の必要を知っておられた。
「イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。」(7)「そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」」(9)
サマリアの女は、突然イエスから語りかけられて驚いた。「ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかった」(9)ので、ユダヤ人からサマリア人に話しかけるということはなかった。また、公の場で、男性が女性に語りかけることもなかった。
このサマリアの女の話は、例外的なことが連続した出来事であった。イエスがサマリアを通られたこと、サマリアの女に話しかけられたこと。イエスは、敢えて自分の属性とは異なる属性の人に語りかけた。イエスは、民族的、宗教的、社会的境界線を乗り越えて、この女に語りかけた。それは、心の渇きを覚えているサマリアの女を救いに導くためであった。イエスは、今日も、民族的、宗教的、社会的境界線を越えて、心の渇きを覚える者の所まで来て下さる。
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