Ⅱテモテ1:6-8

25.2.16.
「テモテへの手紙第二」は、パウロが殉教する前に書いた最後の手紙。ローマ皇帝ネロによる迫害の中、パウロは捕らえられ、投獄されてしまった(1:8,16、2:9)。一方、テモテは、エペソ教会の牧会者となっていたが、激しい迫害や異端との戦いの中で、心身共に弱くなってしまっていた。そのようなテモテを励ますために、パウロは、ローマの牢からテモテにこの手紙を書いた。パウロは、どのような励ましをテモテに送ったのか。
1.御霊に再び燃やされるように
パウロの按手によってテモテに与えられた「神の賜物」(6)とは、テモテが教会の牧会者として働くための賜物(能力)と考えられる。Ⅰテモ4:14。恐らく、テモテはエペソ教会の牧者に任命される時に、パウロや他の長老たちの按手を受けたのだろう。その時、「預言によって」、「聖霊の賜物」が与えられた。前節の13節には「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」とあるので、「勧め」、「教える」賜物だったのかもしれない。Cf.ロマ12:6-8。しかし、Ⅰテモ1:6には「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」と言われていることから、この「神の賜物」とは、聖霊ご自身であるとも考えられる。
パウロは、この「神の賜物」である聖霊を「再び燃え立たせてください」と語っている。「再び燃え立たせ」るとは、消えかけている火を再び燃え上がらせ、燃やし続けること。教会外からの迫害や教会内の様々な問題によって、恐れや不安に襲われ、テモテの内にある聖霊の炎が消えそうになっていたのかもしれない。私たちもいつの間にか御霊の火が消えかかり、信仰を冷たくなってしまっていないか。今、あなたの心は聖霊の炎で燃えているか。消えかかっていないか。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ロマ12:11)「御霊を消してはなりません。」(Ⅰテサ5:19)
2.力と愛と慎みを与える御霊
聖霊によって、私たちには「力と愛と慎み」(7)が与えられる。
① 「力」
この「力」はギリシヤ語で「デュナミス」といい、ダイナマイトの語源ともなった言葉で。私たちの能力を超えた大きな力、臆病な者を大胆な者にする力。イエスは「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使1:8)と言われた。「証人」という言葉は、ギリシヤ語で「マルテュス」といい、「殉教者」という意味。イエスの「証人」とは、自分の命を犠牲にしてイエスを証する人のこと。イエスの弟子たちは、イエスが捕らえられた時、イエスを見捨てて逃げてしまい、ユダヤ人たちを恐れて隠れていた。しかし、聖霊の満たしを受けた後、彼らは人々の前で大胆に福音を語った。彼らは、命がけで福音を宣べ伝え、殉教していった。聖霊は、迫害をも恐れない、大胆な主の証人となるための力を与えて下さる。
② 「愛」
この「愛」はギリシヤ語で「アガペー」といい、「無条件の愛」、「一方的な愛」、「犠牲的な愛」を意味し、「神の愛」を表す言葉。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている。」(ロマ5:5) まず、私たちは「聖霊によって」神がどんなにか私たちのことを愛しておられるのか、「神の愛」を知り、「神の愛」に満たされることが出来る。この「神の愛」を知り、「神の愛」に満たされると、どんな迫害や困難の中でも、平安でいられ、希望をもつことが出来、喜ぶことが出来る。Cf.ロマ5:1-5。Cf.Ⅰヨハ4:18。また、この「神の愛」は、どのような人をも愛する愛。Cf.マタ5:43-48。これは、人間的には不可能だが、「神の愛」に満たされる時、可能となる。イエスは、十字架の上で、自分を罵り、殺そうとしている人々のために祈った(ルカ23:34)。聖霊は、どんな罪人をも愛したイエスの愛を私たちにも与えて下さる。
③ 「慎み」
この「慎み」はギリシヤ語で「ソフォロニモス」といい、「自制する」という意味。英語では「self-control」、「self-discipline」といい、どのような状況の中にあっても、自分自身を制することが出来る能力。自分の感情や考えや意志をコントロール出来る心。恐れのある時に平安を持たせ、絶望の中でも希望を抱かせ、悲しみの中でも喜びを湧かせ、不可能と思える時にも信仰を与え、憎しみに対しては愛をもって応えさせる。また、世の中の考え方、生き方に流されないようにさせる。「自制」は、9つの「御霊の実」の一つとなっている(ガラ5:22-23)。ステパノは「信仰と聖霊に満ちた人」(使6:5)であった。ステパノがユダヤ人たちと議論していた時、「彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった」(使6:10)。そして、聖霊に満たされたステパノは、議会で最後まで冷静に御言葉を語った(使7章)。彼は自分を憎み、訴える者たちに対しても感情的にならず、自分を殺そうとする者たちのためにも祈ること出来た。ステパノは、聖霊に心が支配されていたので、感情を制し、正しい心の態度が取れた。
今日、パウロの時代のような迫害はない、しかし、クリスチャンであることを恥じて隠したり、福音のための困難を恐れて逃げてしまってはいないか。また、聖霊の炎が消えかかり、信仰がなまぬるくなっていないか。主は「くすぶる灯心を消すこともない」お方(マタ12:20)。飢え渇いた心で主を求め、聖霊の炎をもう一度燃え立たせていただこう。聖霊の炎に燃やされて、福音宣教のために共に立ち上がろう。
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