20.2.16.

「主の祈り」の後半の二つ目の祈りは、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」(12)です。これは、どのような祈りなのでしょうか。

1.キリストによる罪の赦しを求める

「負いめ」とは、「当然返すべき借金」のことですが、「罪」のことを言っています。ですから、ルカ11:4では、「私たちの罪をお赦しください」となっています。ユダヤ教では、罪は借金のように、神の前に積み上げられるという考え方がありました。私たちは、罪という莫大な借金を神に対して負っていています。そして、それを自分の力では、いつになっても返すことが出来ないのです。どんなに良いことをして償おうとしても、償うことは出来ません。私たちの罪が赦される唯一の方法は、ただ神に赦していただく以外ありません。

神は、私たちの罪を赦すために、神は大きな代価を払って下さったのです。罪は、最初の人アダムが罪を犯したことによって、全人類の中に入って来ました。そして、アダムが罪を犯した結果、その罰として、人間には死(刑)が定められました。借金は、誰かが肩代わりに、借金に相当する金額を支払えば、免除されます。この死(刑)を免れるためには、誰かが身代わりに命をささげ、死ななければなりません。そこで、神は、御子イエス・キリストを遣わされました。

キリストは、私たちの罪を負い、身代わりに十字架で死んで下さいました(イザ53:5-6)。キリストは、私たちの罪の「贖い」となって下さったのです。「贖い」とは、元々は「損失の埋め合わせ」、「償い」、「身代わり」を意味します。すなわち、誰かが、失った財産や権利(損失)を、身代わりとなって、買い戻したり、埋め合わせたりすることです。キリストは、私たちの罪の身代わりに血を流し、命をささげ、死んで下さったのです。キリストを信じ受け入れる時、罪は赦されるのです(使10:43エペ1:7コロ1:14)。

2.日々の罪の赦しを求める

聖書は、罪を赦された者は、もう罪に定められることもないと言っています(ロマ8:1)。なぜなら、イエス・キリストの「死によって神と和解させられた」(ロマ5:10)からです。それによって、「聖く、傷なく、非難されるところのない者」(コロ1:22)とされたのです。しかし、これは、罪の告白や悔い改めが必要なくなったということではりません。

ヨハ13:3-10には、イエスが弟子たちの足を洗われたことが書かれています。ペテロの番に来た時、彼は「決して私の足をお洗いにならないでください」と言いました。イエスは「もし…洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と答えました。すると、今度はペテロは「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言いました。イエスは「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」と答えました。一旦、イエス・キリストを信じて救われた者は、罪を赦され、きよめられています。しかし、この地上での日々の歩みの中で、罪に汚れてしまうことがあるのです。その場合は、その汚れてしまった部分だけきよめられればいいのです。ですから、日毎に犯す罪について、「私たちの負いめをお赦しください」と祈るのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハ1:9)

罪をそのままにしておくなら、罪が神との親しい交わりを隔ててしまいます(イザ59:1-2)。「聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブ12:14) Cf.マタ5:8。また、箴28:13には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける」とあります。ですから、罪の赦しは、実は自分自身のためなのです。

3.他の人の罪を赦す

「私たちも私たちに負いめのある人たちを赦しました」という祈りが続いています。ルカ11:4では「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します」となっています。これは、「私たちが他の人を赦したから、私たちも赦して下さい」という条件の祈りでなく、「私たちが赦されたのだから、私たちも他の人を赦します」ということです。「私たちの負いめをお赦しください」と祈る時、私たちは他の人に対する赦しをもっているかどうか探られます。

ある時、イエスはペテロに「七度を七十倍するまで」(マタ18:22)赦しなさいと言われました。そして、その直後、「無慈悲なしもべ」の例え話をされました(マタ18:23-35)。このたとえ話の中で、大切なポイントは、33節の「主人」の言葉です。「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」すなわち、赦された者として、他の人も赦すべきであるということです。

ギリシヤ語で「赦す」という言葉には、「解放する」という意味もあります。誰かを赦すということは、その人を罪の責めから解放してあげるということです。しかし、赦しは、相手を解放するだけではなく、自分自身をも解放することにもなります。もし、私たちが赦さないなら、怒り、恨み、憎しみにいつまでも捕らわれてしまいます。人を赦すことは、その人を解放するだけでなく、自分自身をも解放することになるのです。

怒りや憎しみを自分の手から離して、神に委ねましょう(ロマ12:17-21)。また、赦しとは「忘れること」ではありません。「思い出さないこと」です。エレ31:34で、神が私たちの罪をもう思い出さないと言われるように、人の罪を敢えて思い出し、その時の気持ちを温め直すようなことはやめましょう。神に赦されたのだから、他の人を赦さなければならないのです(エペ4:32コロ3:13)。

 

 

イエス・キリストを信じ、罪の赦しをいただき、父なる神のもとに立ち返りましょう。日々の生活の中で、罪を犯してしまったなら、神にその罪を告白し、赦しを求めましょう。神が私たちを赦して下さったように、私たちも他の人を赦しましょう。そして、このように、神の赦しをいただき、他の人を赦す時、御名があがめられ、御国が実現され、御心が行われるのです。

Filed under: 主の祈り伊藤正登牧師