Ⅰサムエル10:17-11:15

23.6.4.

サウルは、サムエルから王として油注ぎを受けましたが、まだ、イスラエル人の前で正式に王として認められていませんでした。10章後半では、サウルがイスラエル人の前で、王として任命されたことが書かれています。

1.臆病者で隠れていたサウル

「サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め」(10:17)、イスラエルの人々に言いました。「…あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。」(19) そして、誰がイスラエルの王として選ばれているか調べるために、イスラエルの各部族、家族の代表者たちが順番にくじ引きをしました。くじ引きは、人間的な考えによって物事を決めるのではなく、全てを神に委ね、神の導きに従うという方法でした(箴16:33)。すると、ベニヤミン族が選ばれ、最後にキシュの子サウルが選び分けられました(20-21)。

「そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。」(21) 人々が主に尋ねると、「主は『見よ。彼は荷物の間に隠れている』と言われた。」(22) おそらく、サウルは、自分が王として相応しくないと考え、隠れていたのでしょう。サウルは、イスラエルの中で、一番ハンサムで、背の高い大男でした。しかし、サウルは、臆病者で小心者だったのです。結局、サウルは、イスラエルの人々の前に連れ出されることになりました(23)。サムエルは、イスラエルの人々にサウルを紹介しました。「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。」(24) すると、「民はみな、喜び叫んで、『王さま。ばんざい』と言った。」(24)

しかし、サウルを軽蔑していた「よこしまな者たち」(27)もいました。彼らは「この者がどうしてわれわれを救えよう」と見下し、贈り物もしませんでした(27)。確かに、ある人たちの目には、サウルが王として頼りなく見えたのでしょう。「しかし、サウルは黙っていた。」(27) サウルは、何も反論しませんでした。サウルも自分には王となる資格などないと考えていたので、言い返せなかったのでしょう。このように、サウルは、ハンサムで背が高かくて見かけは良かったのですが、臆病者で、頼りなく、王となるには相応しい者ではありませんでした。

2.強められ勝利したサウル

「その後、アモン人ナハシュが上って来て、ヤベシュ・ギルアデに対して陣を敷いた。」(11:1) ヤベシュの人々は、勝つ見込みがなかったので、「私たちと契約を結んでください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう」(1)と言いました。すると、ナハシュは「おまえたちみなの者の右の目をえぐり取ることだ」(2)と答えました。「ヤベシュの長老たちは彼に言った。『七日の猶予を与えてください。イスラエルの国中に使者を送りたいのです。もし、私たちを救う者がいなければ、あなたに降伏します。』」(3)

「使者たちはサウルのギブアに来て、このことをそこの民の耳に入れた。民はみな、声をあげて泣いた。」(4) ちょうど「そこへ、サウルが牛を追って畑から帰って来た。」(5) 畑仕事から帰って来ました。サウルが「民が泣いているが、どうしたのですか」と尋ねると、「みなが、ヤベシュの人々のことを彼に話し」ました(5)。「サウルがこれらのことを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。それで彼の怒りは激しく燃え上がった。」(6) サウルは、臆病者で隠れていましたが、聖霊によって力が与えられました。

サウルが「イスラエルの国中に」使者を送り、兵士たちを募ると、「民は主を恐れて、いっせいに出て来」(7)、イスラエルの人々30万人、ユダの人々3万人が集まりました(8)。「翌日、サウルは民を三組に分け、夜明けの見張りの時、陣営に突入し、昼までアモン人を打った。」(11) サウルは、先頭に立って、アモン人を攻撃し、午前中のうちに、大勝利したのです。このアモン人に対する大勝利によって、サウルは王として認められることになりました。サウルは、「きょう、主がイスラエルを救ってくださった」(13)と告白し、神に栄光を帰しました。この後、サムエルはギルガルでサウルを王とし「王権を創設する宣言」をしました(14)。「民はみなギルガルへ行き、ギルガルで、主の前に、サウルを王とした。」(15) サウルは、聖霊によって力が与えられ、王としての務めを果たすことが出来るようになったのです。

 

サウルは、臆病者で、王として相応しい人間ではありませんでした。しかし、神は、そんなサウルを選び、聖霊の油注ぎを与え、力を与えられました。神は、弱い者をもご自身の器として選び、聖霊を注ぎ、力を与えて下さり、神の働きが出来るようにさせて下さるのです。Ⅰコリ1:26-29。神が弱い者を選ばれ用いられるのは、神の栄光が現されるためです。

イエスは、ご自分を裏切り、見捨てるような弱い弟子たちを選びました。イエスの弟子たちは、イエスが捕えられた時、イエスを見捨てて逃げてしまいました。しかし、彼らはユダヤ人たちを恐れて隠れていたが、聖霊の注ぎを受けて、力強いイエスの証人に変えられました。使1:8にあるように、聖霊の力を受けた弟子たちは、激しい迫害の中でも、福音を語り続け、殉教の死を遂げ、福音は全世界へと広がっていきました。

私たちにも福音宣教の使命と任務が与えられています。出て行って福音を宣べ伝え、弟子を作り、教会を生み出さなくてはなりません。この働きは、人間の知恵や力で出来るものではなく、聖霊の力が必要です。「…「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」…」(ゼカ4:6) 「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。」(Ⅰコリ2:4)

私たちも、福音宣教という使命と任務を果たすために、聖霊による油注ぎをいただいて、新しい人に変えていただきましょう。

Filed under: I サムエル記伊藤正登牧師