19.11.3.

私たちの人生の目的は、神の栄光を現すことです(Ⅰコリ10:31)。私たちは「多くの実を結」ぶことによって、神の栄光を現すことが出来ます(ヨハ15:8)。

1.行っていつまでも残る実を結ぶ

主が私たちたに望んでおられる「実」の一つは、「御霊の実」(ガラ5:22,23)です。これらの9つの「実」はキリストの性質です。「実」を結ぶということは、私たちがキリストの性質を持つようになるということです。つまり、私たちがキリストに似た者へと変えられていくということです。私たちが霊的に成長すると「御霊の実」を結び、キリストに似た者となるのです。「御霊」の働きによってキリストに似た者に変えられていきます(Ⅱコリ3:18)

また、エペ5:9では、「善意と正義と真実」が「光の実」であるとも言っています。世の中には不法がはびこり、多くの人々の愛は冷たくなっています(マタ24:12)。この暗やみの世界の中で、愛のない所に優しさを、不正のある所に正義を、偽りのある所に真実をもたらすことが「光の実」を結ぶということです。Cf.マタ5:16

しかし、イエスは、私たちが選ばれ、任命されたのは、私たちが「行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」(ヨハ15:16)であると言われました。「御霊の実」も「光の実」も私たちが結ぶべき「実」ですが、ここでイエスが言っている「実」は、「行って」結ぶ「実」であり、「残るため」ものです。いつまでも「残る」「実」とは、救われ、永遠のいのちを与えられた人のことです。パウロはコリントのクリスチャンたちのことを、「あなたがたは、主にあって私の働きの実」(Ⅰコリ9:1)であると言っています。彼らは、パウロの宣教の働きによって救われた「働きの実」であったのです。また、パウロは、福音宣教が広まって、多くの人が救われていることを「世界中で、実を結び広がり続けています」(コロ1:6)と表現しています。

ですから、イエスが「行って実を結び」、その「実が残る」ようにと言われた意味は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝え」(マコ16:15)ること、「行って、あらゆる国の人々を弟子と」(マタ28:19)するということなのです。ですから、私たちが結ぶべき「実」とは、人々に「福音を宣べ伝え」、彼らを救いに導き、「弟子」とするということです。主は、人々の救いという「実」が見たいと切に願っておられるのです。私たちは、福音宣教の「働きの実」を結ばなければなりません。

2.イエスにとどまる

私たちが「実」を結ぶためには、イエスにとどまっていなければなりません(ヨハ15:5)。

① イエスとの関係にとどまる

イエスにとどまるとは、まずイエスとの個人的な関係を持つということです。それは、イエスを救い主として信じ受け入れるということです。神との関係が断ち切られている状態は、霊的に死んでいる状態です(エペ2:1)。そのような状態では、実を結ぶことは出来ません。しかし、私たちが自分の罪を認め、告白し、イエスが私たちの罪のために、十字架にかかって死んで、よみがえられたことを信じるなら、罪は赦されるのです。神との関係が修復され、霊的に生き返らされるのです(エペ2:5)。それによって、私たちは、「多くの実」を結ぶ者へと変えられるのです。

② イエスとの交わりにとどまる

イエスとの関係は、一時的な体験で終わることなく、生涯続くものです。それは、イエスとの交わりによって、生涯をかけて築き上げて行くものなのです。ですから、日々、イエスとの交わりの時を持つことが必要です。イエスとの交わりが失われてしまう原因の一つは、「忙しさ」です。日常生活の様々な事柄に心が囚われ、イエスとの時間を持つことが出来ないのです。イエスとの霊的な交わりがなくなってしまうと、霊的な力が失われます。そして、心から喜びが失われ、喜んで主に従い、仕えることが困難になります。そして、律法的な奉仕になったり、人を裁いたり、神に不平不満を言ったりします。イエスは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」(ルカ10:42)と言われました。マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」(ルカ10:39)いました。私たちも主の御前に行き、主の御声(御言葉)に耳を傾けるのです。それこそが「どうしても必要なこと」です。イエスとの交わりによって、イエスの言葉を私たちの内にとどまらせるなら、祈りもかなえられ(ヨハ15:7)、「多くの実」を結ぶことが出来るのです。

③ イエスの愛にとどまる

イエスは、「わたしの愛の中にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)と語られました。私たちは、イエスの愛を忘れることなく、常に覚え、感謝しなければなりません。イエスは十字架にかかり、最大の愛を示して下さったのです(ヨハ15:13、ロマ5:7-7)。イエスは、「あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(ヨハ15:10)と言われました。

そして、イエスの「戒め」とは、イエスが私たちを「愛したように」、私たちもまた「互いに愛し合うこと」です(ヨハ15:12)。私たちが「互いに愛し合う」ことによって、イエスの「愛にとどまる」ことが出来るのです。「互いに愛し合うこと」ということは、教会において、実践され、訓練されるものです。私たちが「互いに愛し合うこと」によって、イエスの「愛の中に」とどまるなら、「多くの実を結」ぶことが出来るようになります。すなわち、人々は「愛」のある教会に導かれ、「愛」のある教会で救われます。

 

イエスは、私たちが「行って実を結び、その…実が残る」ことを望んでおられます。すなわち、世に出て行って、人々に福音を宣べ伝え、彼らを救いに導くことです。そして、私たちが「多くの実」を結ぶためには、イエスに「とどまる」ことが必要です。イエスにしっかり繋がっているなら、時が来たなら自然に「実」を結ぶのです。イエスに「とどまり」、「多くの実」を結び、主の「栄光」を現しましょう。

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