風は思いのままに

ヨハネ3:8

21.5.16.

聖霊は、どのようなところに臨まれ、働かれるのでしょう。

1.聖霊は思いのままに働く

ある時、イエスは、訪ねて来たニコデモに語られました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3) ニコデモは、「ユダヤ人の指導者」(1)であり「イスラエルの教師」(10)でしたが、「新しく生まれる」ということの意味が理解出来ませんでした。そこで、イエスはニコデモに言われました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(5) この「水と御霊」とは、同じ一つのこと、すなわち「聖霊」のことです。イエスは、「人は、聖霊によって、新しく生まれ変わる」と語られたのです。

そして、イエスは「風は思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」(8)と語られました。聖霊によって、新しく生まれる行程は分からないということです。ここで、イエスは、「聖霊」を「風」に例えておられます。聖書では、「聖霊」は「風」や「」として表されています。ヘブル語で「」は「ルーアッハ」といい、「風」、「」とも訳されます。ヘブル語の「ルーアッハ」に対応するギリシヤ語は「プニューマ」で、「」「」、「」という意味があります。8節の「風」と「御霊」も「プニューマ」となっています。

ですから、「風は思いのままに吹き」は、「御霊」は「思いのままに吹き」とも訳せます。「思いのままに」というのは「望むままに」という意味です。パウロも「同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」(Ⅰコリ12:11)と言っています。「みこころのままに」というのは、「望むままに」という意味です。聖霊は、人格をもった神であり、意思や感情を持っておられます。聖霊は、「思いのままに」、「みこころのままに」、「望むままに」働かれるのです。

2.聖霊が臨まれるところ

それでは、聖霊が喜んで臨まれるところは、どのようなところなのでしょう。

① 求められているところ

イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます」(ルカ11:9)と語られました。イエスは、「聖霊」を「求め」るならば、「与えられます」と言われたのです(ルカ11:13)。聖霊は、求められているところに来て下さいます。求められていないのに、無理矢理その人に臨まれることはありません。今、私たちには、聖霊の満たしに対する飢え渇きをもっているでしょうか。イエスは、「わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハ7:37-38)と招いておられます。

② 賛美がなされているところ

詩22:3には、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」とあります。神は聖なるお方ですが、私たちが神を賛美する時、その賛美の中に来られるのです。ソロモン王が神殿を奉献する時、楽器を奏でる者たちも、賛美を歌う者たちも「まるでひとりであるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえ」ました。すると「主の宮は雲で満ちた」とあります(Ⅱ歴5:13-14)。その「雲」は、主の臨在、すなわち聖霊の臨在を表すものでした。賛美がささげられる中に、主の臨在、聖霊の満たしがあったのです。そして、「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることが出来なかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである」とあるように、それは豊かな臨在でした。

③ へりくだりのあるところ

聖霊は、その名称の通り「聖なるお方」であり、「高く聖なる所」におられます。しかし、聖なる聖霊は「へりくだった人とともに住む」のです(イザ57:15)。

 

a) 自分の弱さや無力さを認めて、神を求め、神に頼る人

多くの人たちが神の存在を認めず、「神なんて必要ない、自分の知恵や能力や努力で何でも出来る」と考えています。このように、神を認めないことは、神に対する高慢です。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる」(ヤコ4:6)のです。「心砕かれて、へりくだった人」とは、自分の弱さ、無力さを認め、神を求め、神に頼る人のことです。聖霊は、そのような人に臨み、そのような人と「ともに住む」のです。

b) 自分の罪を認めて、悔い改める人

「へりくだった人」とは「砕かれた人」、「砕かれた、悔いた心」(詩51:17)を持つ人です。人間は、罪を犯してしまった時、裁きを恐れ、自分を守るために、言い訳を言ったり、人のせいにしたり、胡麻化したりしてしまうものです。しかし、自分の罪や過ちを認め、それを悔い改めるなら、神はその人を喜ばれ、その人に臨まれ、その人と「ともに住む」のです。空気が気圧の高いところから低いところに流れて風が起るように、聖霊も「へりくだり」のあるところに臨まれるのです。

 

聖霊の満たしは、自動的にではなく、求める者に与えられます。飢え渇きをもって聖霊の満たしを求めるなら、主は惜しみなく聖霊を注いで下さいます。イエスは、聖霊の満たしを求めるようにと呼びかけておられます。主を賛美し、へりくだり、聖霊の満たしを求めて、祈り求めましょう。今も、聖霊の風は、「思いのままに」吹いています。

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