イザヤ30:15
2026.5.31
イザヤ書28〜37章では、大国アッシリアの脅威の中で、「人に頼るのか、神に信頼するのか」が問われます。
① 不信仰は人に頼らせる イザヤ28〜31章
南ユダの民は、大国アッシリアの脅威を恐れ、神に立ち返るのではなく、エジプトの馬や戦車に頼ろうとしました。しかしイザヤは語ります。「主を求めなさい」(31:1)
神が求めておられたのは、慌てて走り回ることではなく、立ち返ること、静まること、主に信頼することでした(30:15)。彼らの問題は、主に目を向けず、主を求めないことでした。私たちは危機の時、何に頼るでしょうか。人の力や自分の知恵でしょうか。それとも、主なる神でしょうか。主は歩むべき道を示してくださいます(30:21)。
② 主が来られる時、回復が始まる イザヤ35章
イザヤ28〜35章は、警告だけで終わりません。厳しい「わざわいだ」のことばの後に、35章では希望が語られます(35:5–6)。
これは、主が来られる時に起こる回復の姿です。人間の力は、本当の回復をもたらすことはできません。しかし主が来られる時、救いと回復が始まります。
この預言は、イエス・キリストの働きの中に現れました。主イエスは目の見えない者を見えるようにし、耳の聞こえない者を聞こえるようにし、足の不自由な者を立ち上がらせ、福音を告げ知らせました(マタイ11:2–6)。主イエスこそ、私たちを回復させてくださる救い主です。
③ 信仰は主に叫び求める イザヤ36〜37章
紀元前701年、アッシリア王センナケリブはユダに攻め上り、エルサレムを脅かしました。アッシリアの使者ラブ・シャケは、「主に頼っても無駄だ」と神への信頼をあざけりました(36:15、20)。
しかしヒゼキヤ王は、まず主の前に出ました。衣を裂き、粗布をまとい、主の宮に入りました(37:1)。さらに、脅しの手紙を受け取った時、ヒゼキヤはそれを主の前に広げました(37:14)。彼は自分の力で抱え込まず、主に祈りました(37:15,20)。
主はその祈りに答え、エルサレムを守られました(37:33–37)。
私たちも、不安や恐れ、誰にも言えない問題を、主の前に広げてよいのです。
信仰とは、問題がないことではありません。問題を主の前に持って行くことです。
結論
危機の時、私たちは誰に頼るでしょうか。人に頼るのでしょうか。それとも、神に信頼するのでしょうか。主に信頼する者は、決して失望に終わることがありません(28:16)。
Filed under: 和田一喜牧師

