へブル12:1-3
26.7.12.
3.イエスを見つめよう
信仰の競走を走るために必要な3つ目の「Let’s」は「let’s fix our eyes:見つめよう」。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(2)
① イエスに目を向ける
新改訳2017年版では「目を離さないでいなさい」となっているが、他の訳では、「イエスを仰ぎ見つつ」(口語)、「イエスを見上げて」(塚本)、「イエスを仰ぎ見て」(前田)、「見つめながら」(新共同)、「Let us fix our eyes on Jesus」(NIV)。ギリシア語では、「アフォラウ」という動詞が使われていて、辞書によると「一つのものから他のものに目を向けて見つめる」という意味。すなわち、他に目を引くものから目を離して、イエスだけに集中し、イエスだけ見つめるようにということ。
自分の目の前の問題や困難、自分の周りの状況に目を向けるのではない。希望がない。人に期待したり、人に信頼したり、人に目を向けるのではない。失望してしまう。自分自身に目を向けるのでもない。行き詰まり、絶望してしまう。しかし、イエス・キリストを見上げる時、そこには大きな希望がある。3節には「あなたがの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです」とある。
マタイ14:22-33には、ペテロが湖の上を歩いた話が書かれている。ペテロがイエスの「来なさい」という言葉を信じて舟から出ると、湖の上のイエスのもとまで歩くことが出来た。
「ところが強風を見て怖くなり、沈みかけた」(マタ14:30)。イエスだけを見つめていた時には、信仰によって、嵐の湖の上を歩くことが出来たが、イエスから目を離し、嵐に目を向けた途端に恐れに支配され、沈み始めた。
常に信仰の目をもって、イエスだけを見つめ続けなければならない。
② イエスは信仰の創始者であり完成者
へブル書の記者は、イエスのことを「信仰の創始者であり完成者である」と言っている。
「創始者」はギリシア語で「アルケーゴス」といい、「導き手」(口語)と訳されたり、
他にも「先導者」、「指導者」、「先輩」などとも訳される。英語でも様々に訳されている。「author」「pioneer 」「founder 」「originator」。「完成者」はギリシア語で「テレイオテース」といい、「完成者」、「成就者」と訳される。この聖書箇所に「champion」(優勝者)という言葉も使っている英語訳もある。
11章には、信仰の競走を走った信仰の先輩たちについて書いてある。しかし、イエスこそが信仰の競走を最後まで走り抜いて勝利を得られた。まさに「パイオニア・先導者」であり、「チャンピオン・優勝者」である。だからヘブ12:2後半には、具体的に「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをまのともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」とある。すなわち、キリストは、十字架にかかり苦しみを耐え忍び、死んだが、三日目によみがえり、天に上げられ、神の右の座に着かれた。Cf.ピリ2:6-9。
「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」とは、信仰のパイオニアでありチャンピオンであるキリストを私たちの模範とし、苦難を耐え忍んで信仰のレースを走るようにということ(Ⅰペテ2:21-25)。3節にも「あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい」とある。この「考えなさい」は2節の「目を離さないでいなさい」(見つめなさい)と同様、模範としなさいということ。
③ 将来与えられる喜びのゆえに
イエスは、どのようにして十字架の苦しみを忍ばれたのか。イエスは、「ご自分の前に置かれた喜びのために」(2)、十字架の苦しみを忍ばれた。この「喜び」とは、ご自分の十字架の死によって、私たち人類のための贖いの業が完成し、多くの者たちがイエス・キリストを信じて救われるようになるという「喜び」。イエスは、十字架の苦しみの後の栄光を見ていたので、苦しみを耐え忍ぶことが出来た。
へブル人への手紙は、文字通りユダヤ人のクリスチャンたちに対して書かれた手紙。彼らは、クリスチャンであるということのゆえに、異邦人からだけではなく、同朋のユダヤ人からも迫害を受け、苦しみの中にあった。彼らの中には、イエスに対する信仰を捨てて、再びユダヤ教に戻ろうとする誘惑もあった。この手紙は、そんなユダヤ人クリスチャンに信仰の道を走り続けるようにと励ましている。すなわち、苦しみの後の栄光を見て、苦しみを忍び、信仰の競走を走り続けるようにと。
パウロも、同じようなことをロマ書の中で言っている。「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」(ロマ8:18) パウロは「今の時の苦難」と「やがて…啓示される栄光」を比べて説明している。今、この地上では様々な苦しみがある。しかし、現在の苦しみは、将来与えられる栄光に比べたら、取るに足りない、と。「やがて…啓示される栄光」とは、キリストの再臨の時に、私たちが新しい肉体をもってよみがえり、キリストと共にこの地上を治めるということ。その時、この地上は、全ての呪いから解放されて、義と平和が支配する。Cf.ロマ14:17。
現在の苦しみだけ見るのではなく、将来与えられる栄光に目を向けることが必要(Ⅱコリ4:16-18)。
パウロは、人生を終えようとしていた時に次のように言っている。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(Ⅱテモ4:7) 私たちも人生の最後において、パウロのような告白が出来るように、全ての重荷と絡みつく罪を投げ捨てて、どのような苦難も耐え忍び、主を見上げて、苦しみの向こうにある栄光を目指して、信仰の競走を一心に走りきろう。イエスが私たちの信仰を始めて下さるお方であり、完成させて下さるお方である。
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