19.6.16.

「放蕩息子の例え話」の中心人物は放蕩息子ではなく、彼を受け入れた父です。

この父を通して、父なる神がどのようなお方であるかが示されています。

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19.6.9.

「ペンテコステ」(五旬節)は、ユダヤ教の三大祭の一つですが、キリスト教会にとって、聖霊が注がれ、教会が誕生した記念すべき日です。

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19.5.19.

「バベルの塔」の話は、私たちに何を教えているのでしょうか。

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19.5.5.

イエスが復活された後、ガリラヤ湖で漁をしていたペテロや弟子たちに会われました。彼らは、一晩中漁をしましたが、何も獲れませんでした。夜が明けようとしていた時、イエスが岸辺に立っておられました。イエスは、弟子たちに言われました。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」(6) 弟子たちは、イエスの言葉通りに、「舟の右側」に網を下ろしてみました。「すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」(6)のです。その網は「百五十三匹の大きな魚でいっぱい」(11)でした。この出来事を通して、何を教えられるでしょうか。

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19.4.21.

イエスは、私たちの罪を身代わりに負って、十字架にかかって死なれ、墓に葬られました。その墓の入口は大きな石で塞がれ、封印がされ、墓の外には数人の番兵が見張っていました。しかし3日目に、イエスはよみがえり、墓から出て来られたのです。

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19.4.14.

詩篇23篇の1節は、詩篇23篇の表題となっていますが、6節は結論となっています。

ここでダビデは、大きく二つのことを語っています。

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19.4.7.

詩篇23篇で、ダビデは、神と私たちの関係を「羊飼い」と「羊」の関係に例えて、「主は私の羊飼い」ですと告白しています。しかし、5節からは「家の主人」と「客」となった「旅人」の話に変わっています。しかし、「羊飼い」なる「主」と「羊」である私たちとの親密な関係は引き継がれています。ダビデは、「羊飼い」なる「主」が私たちのためにしてくれることを、「家の主人」が「旅人」をもてなすことに例えて表現しています。

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19.3.17.

ダビデは「主は私の羊飼い」であるゆえに、「私は、乏しいことがありません」と言っています。私たちが満ち足りていることが出来る第3の理由は、「死の陰の谷を歩くことがあっても」、主が「私たちとともにおられ」、「わざわいを恐れ」ることがないからです。

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19.3.10.

ダビデは「主は私の羊飼い」と告白し、「私は、乏しいことがありません」と言っています。これは詩篇23篇全体のテーマとなっていて、その理由が2節以降で説明されています。「乏しいことがありません」ということの第1の理由は、主が私たちを「緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われ」るからです。「羊飼い」が「羊」たちに必要な草を与え、水を飲ませて下さるように、主が私たちの必要を全て満たして下さるので、安心し、満ち足りることが出来るのです。3節には、私たちが満ち足りることが出来る第2の理由が書かれています。 続きを読む

19.3.3.

詩篇23篇は、多くのクリスチャン達に愛され、親しまれている美しい詩篇です。詩篇23篇から、主が私たちにとってどのようなお方なのか学びましょう。 続きを読む